メッセージ - ことごとく主に逆らって来たイゼベルの悲惨な最後(2列王記9:30-37)
ことごとく主に逆らって来たイゼベルの悲惨な最後(2列王記9:30-37)
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- 執筆 :
- pastor 2017-2-24 6:35
ことごとく主に逆らって来たイゼベルの悲惨な最後(2列王記9:30-37)
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メッセージ音声
9:30 エヒウがエズレルにきた時、イゼベルはそれを聞いて、その目を塗り、髪を飾って窓から望み見たが、
9:31 エヒウが門にはいってきたので、「主君を殺したジムリよ、無事ですか」と言った。
主に背いていた二人の王を滅ぼしたエフーは、イゼベルのいるイズレエルの塔のような高い建物へと来た。イゼベルはエフーを前にへりくだるのではなく、外見を着飾って高いところから見下ろし、「主君を殺したジムリ」と呼んだ。
高い所に立ち、身を美しく飾り、傲慢な口をきくのは、サタンの性質である。主はそのようなサタンを地に投げ落とされた。
イゼベルの性質は、次の御言葉の真逆である。
1テモテ2:9 また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。
2:10 むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。
2:11 女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。
2:12 女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。
2:13 なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。
イゼベルはこの後におよんでも身をかざり、髪を結い直し、善い行いとは真逆の人生を歩んできた。彼女は主の預言者に教えられる事なく、かえって殺し、夫であり王であるアハブの上に立ち、主の道に逆らう事を教えて来た。
このイゼベルのような性質を持つ者の行く先が、黙示録に記されている。
黙示録2:20 しかし、あなたに対して責むべきことがある。あなたは、あのイゼベルという女を、そのなすがままにさせている。この女は女預言者と自称し、わたしの僕たちを教え、惑わして、不品行をさせ、偶像にささげたものを食べさせている。
2:21 わたしは、この女に悔い改めるおりを与えたが、悔い改めてその不品行をやめようとはしない。
2:22 見よ、わたしはこの女を病の床に投げ入れる。この女と姦淫する者をも、悔い改めて彼女のわざから離れなければ、大きな患難の中に投げ入れる。
2:23 また、この女の子供たちをも打ち殺そう。こうしてすべての教会は、わたしが人の心の奥底までも探り知る者であることを悟るであろう。そしてわたしは、あなたがたひとりびとりのわざに応じて報いよう。
イゼベルの性質は預言者と事象し、人々を教える立場、支配する立場に立って、人々を不品行に向かわせ、神に背を向けさせ、悔い改めの機会が与えられても心を頑なにして自分の悪い行いを改めない。そのような者に待っているのは、悲惨な主のさばきである。私達は、これを見て戒めを受けるべきである。
9:32 するとエヒウは顔をあげて窓にむかい、「だれか、わたしに味方する者があるか。だれかあるか」と言うと、二、三人の宦官がエヒウを望み見たので、
9:33 エヒウは「彼女を投げ落せ」と言った。彼らは彼女を投げ落したので、その血が壁と馬とにはねかかった。そして馬は彼女を踏みつけた。
ここでもエフーの言葉が権威を持ち、イゼベルに仕えてきた宦官はエフーの言葉に従ってイゼベルを突き落とした。かつてはアハブに対しまたイスラエル全体に対し言葉の権威をもったイゼベルだが、あまりに悔い改めないと、権威を失い、踏みつけられてしまうのだ。
箴言10:9 まっすぐに歩む者の歩みは安全である。しかし自分の道を曲げる者は思い知らされる。
10:10 目くばせする者は人を痛め、むだ口をたたく愚か者は踏みつけられる。
9:34 エヒウは内にはいって食い飲みし、そして言った、「あののろわれた女を見、彼女を葬りなさい。彼女は王の娘なのだ」。
高いところから突き落とされて血をぶちまけたイゼベルを踏みつけ、その足で飲み食いできるエフーの立ち居振る舞いに何か野蛮さを感じる。彼はこの後も、野蛮とみられる事を沢山行う。
9:35 しかし彼らが彼女を葬ろうとして行って見ると、頭蓋骨と、足と、たなごころのほか何もなかったので、
9:36 帰って、彼に告げると、彼は言った、「これは主が、そのしもべ、テシベびとエリヤによってお告げになった言葉である。すなわち『エズレルの地で犬がイゼベルの肉を食うであろう。
9:37 イゼベルの死体はエズレルの地で、糞土のように野のおもてに捨てられて、だれも、これはイゼベルだ、と言うことができないであろう』」。
こうして主が語られた言葉が、ようやく成就した。まことにイゼベルは悲惨な最後であった。この出来事だけを見て、主は恐ろしい、と言う人がいるが、こんなイゼベルにさえも、どれほどの長い時間、イゼベルに対し、アハブに対し、悔い改める機会が与えられ、警告が与えられ続けてきただろうか。どれほど多くの預言者たちが主の警告を伝え、主が確かに生きておられるという証拠の奇跡を行って来ただろうか。しかしイゼベルはことごとくそれらを撥ね付け、自らの悪行を改めずに進んできた。それ故に、この悲惨な最後が彼女に見舞ったのだ。
私達は今、主から注がれている主の恵みの時を軽んじる事なく、主を愛し、畏れ敬う者でありたい。
主は、主を畏れ敬う人には豊かな恵みと祝福を注いで下さるからだ。