メッセージ - 羊の門であり良き羊飼いであられるイエス様(ヨハネ10:1-18)
羊の門であり良き羊飼いであられるイエス様(ヨハネ10:1-18)
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10:1 よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。
10:2 門からはいる者は、羊の羊飼である。
10:3 門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。
ユダヤの羊の囲いは石垣でできており、その囲いのてっぺんには、いばらという棘のついた草が置かれて、羊が乗り越えて行かないように、そして、狼など獰猛な動物が入って来れないようにしてある。
主が与えて下さった律法は私達にとって囲いとなり、守りとなっている。(ローマ2:14)
だからある人が律法の良い行いをするなら、その良い行いがその人にとってガードとなり、祝福の元となる。しかし、律法すなわち御言葉を乗り越えて来る者は、キリストからではなく悪魔サタンに由来する者である。悪魔サタンの性質は、創世記のはじめから、御言葉を乗り越える事である。
10:4 自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。
10:5 ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。
10:6 イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。
羊達は、自分の主人の声を聞き分け、それについて行くものである。それは羊は普段から主人の声を聞いているからだ。
この声は主から来たものなのか、それとも悪魔から来たものなのかが、分からないという人は、普段から主の声を聞いていないからである。聖書の言葉は、まごうことなき主の御言葉である。私達は本物を見極めるために、普段から御言葉を読み、思い巡らし、それを口ずさみ、暗記して行くべきなのだ。
10:7 そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。
10:8 わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
10:9 わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
イエス様は、門である。
1:51 また言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。天が開けて、神の御使たちが人の子の上に上り下りするのを、あなたがたは見るであろう」。
イエス様はご自身の上に御使いた上り下りするのを見る、と言われたが、それはイスラエル民族の先祖ヤコブが実家にいられなくなって逃げ出した時、石を枕にして見た夢と一致している。
創世記 28:16 ヤコブは眠りからさめて言った、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった」。
28:17 そして彼は恐れて言った、「これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」。 28:18 ヤコブは朝はやく起きて、まくらとしていた石を取り、それを立てて柱とし、その頂に油を注いで、
28:19 その所の名をベテルと名づけた。
イエス様は「ともにおられる主(インマヌエル)」であり、天と地をつなぐ門であり、まことの岩であり、油注がれたお方である。イエス様は、神の家の主人である。ヤコブはイエス様のご性質を見たのだ。そして、いつもともにおられる主に、かれは油を注いだのだ。
今、私達の主人は、イエス様である。彼こそ門であり、インマヌエルなるお方であり、私達の岩であり、油注がれた者(キリスト)である。
10:10 盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
10:11 わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
10:12 羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
10:13 彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
よい羊飼いは、羊のために「いのち(プシュケー)」を捨てる。プシュケーとは心理学サイコロジーの元となった言葉であり、「心(思い、意志、感情)」の事である。良い牧者は、羊のために自分の思い、意志、感情を捨てるものである。しかし雇い人は、自分がかわいさに羊を放置する。
牧者たる者は、そして私達一人一人は、主にあって良い牧者となる事を目指し、自分の思い、意志、感情を捨てて主から任された羊の面倒を見るべきなのだ。
10:14 わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
10:15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
イエス様は私達を知っておられ、そして私達もイエス様を知っている。イエス様は、私達のために身代わりとなって命を捨てられた。そのイエス様を愛し、ついて行くのだ。この事は、2000年前の弟子たちや聖徒達にのみ語られた事ではない。その証拠にイエス様は次のように言っている。
10:16 わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
10:17 父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
10:18 だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。
今、2017年を生きる私達も、紀元30年を生きる彼らも、ともに同じ囲いに属し、同じ一人の羊飼いを主としている。この主こそ私達をまことに永遠のいのちへと導く羊飼いであり、天国に唯一通じる門であり、やがて私達は天において彼らとともに永遠の憩いに入るのだ。