メッセージ - ジェホバ・ニシ:主はわが旗 (詩篇23:4)
ジェホバ・ニシ:主はわが旗 (詩篇23:4)
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週報/メッセージ(説教)概要
聖書には、主のご性質をあらわす呼び名が多数登場するが、ダビデが作った詩篇23篇には代表的な主の8つの御名のご性質が練り込められている。今回は詩篇23:4に込められた御名「ジェホバ・ニシ」について見たい。なお、主の御名「ジェホバ」を「アドナイ」「ヤーウェ」と訳す事もあるが、いずれも同じ意味である。
「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」(詩篇23:4)
この言葉は、主の御名「ジェホバ・ニシ(Jehovah Nissi:主はわが旗)」のご性質が現れている。ジェホバ・ニシという主の御名が登場するのは、出エジプト記17:15である。そこは、イスラエルが奴隷の国エジプトを脱出した直後、主から示された約束の地・カナンへ移動する途中、アマレクが襲いかかってきた時である。
アマレクは、イスラエルの中で行軍に疲れ、弱って後方にいた人達を狙いうちにして、襲ってきた。彼らの性質を一言で言うなら、「弱い者いじめ」である。主はそのような者は、断ち切られる。(申命記25:17-19)
『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。
わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)
モーセが丘の上で手をあげたのは、背後で祈り、実戦部隊として戦うヨシュア達を祝福するためである。
私達の戦う武器は、鉄でできたものではなく「霊による剣、すなわち御言葉」であり、その手段は、肉弾戦ではなく「祈り」である事が、エペソ6章に記されている。モーセは、祈りの重要性をよく認識していたのだ。
『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11) 背後で祝福の手を上げて祈るその手が、戦いを左右した。祝福の手を挙げる事は、どれほど重要だろう。
アロンとフルはその重要性に気づき、石を取ってモーセが座れるようにし、さらに二人は両脇からモーセの手を支えたので、彼の手は日没までしっかり挙げられたままだった。ヨシュアはアマレクの軍を打ち敗った。
ヨシュアは丘の上で手を上げているモーセを背後に、安心して戦う事が出来ただろう。後にヨシュアが指導者になった時、彼はアイの町を攻撃する際に、ずっと槍をその町に向かって上げ、イスラエルが勝利するまで手を引っ込めなかった(ヨシュ8:26)。また彼は、祈りによって太陽と月を一日停めてしまった。(10:12)
このように、モーセ、アロン、フル、ヨシュア、それぞれに役割があったように、教会の牧会の現場も、手を上げて祈る人、祈りに専念できるように支える人、実戦部隊として戦う人、それぞれ役割があるのだ。
『主はモーセに言われた、「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう」。モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。そしてモーセは言った、「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる」。』
ここに「主はわが旗(ジェホバ・ニシ)」という主の御名が出てきた。それは『主の御座の上の手』のことであると書いてある。つまり私達が手を上げて祈る時、その手が主の旗となり、そこに神の国の影響が、神の統治が、その場所に及ぶようになる、という事なのだ。手を上げて祈る事が、いかに大事だろう。
戦いに勝利した時や、未開の土地に初めて踏み入れた時など、そこに、自分たちの旗を立てて、「ここは自分たちのもの、自分達の統治が及ぶ所」、と内外に宣言するように、祈りの手を挙げる事も、そうである。
自分の子供や家族のために、会社のために祈る時、あるいは、邪悪な領域に足を踏み入れて伝道する時に、祈りの手を挙げるのである。そうする事で、そこに神の国の統治権を呼び起こす事が出来るのだ。
ただし、手を挙げれば誰でも祈りが聞かれるわけではない。祈る手は、神に従う「きよい手」でなくてはならない。『ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。』(1テモテ2:8) 『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』(ヤコブ4:8)
主こそ、羊飼いである。私達が死の陰の谷を歩く事があっても、主のむちとつえが導くなら、恐れる事は無い。あの方は私達を宴の席へと伴われ、私達の上に翻るあの方の旗じるしは、愛だから。(雅歌2:4)
モーセやヨシュアのように、指導する立場にある人は、きよい手を挙げて祈る事が大事であり、祈る立場の人が煩いなく祈りに専念できるように、助ける人も重要であり、もちろん実際に働く人も大事である。このように、それぞれの役割を果たし、主の愛の旗印の下で勝利の歩みをして行く皆さんでありますように!