メッセージ - ジェホバ・メカディシケム(詩篇23:5)
ジェホバ・メカディシケム(詩篇23:5)
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主の御言葉を伝える人が、畏れ敬う心を持って準備し、そして講壇に立つ時、主からの特別な油注ぎが与えられるのを感じるはずである。
それは、御言葉が伝えられ、主の栄光がその集いにいる一人一人に注がれるためであり、主の栄光が大いなるものとされるためだ。
講壇に立てば誰でもメッセージが与えられるというものではない。日頃、主の御前で整えられた心が必要である。
信仰は登る。恵みは降る。その二つが合う時、奇跡が起きる。もし、私達が上らせる信仰が少ないなら、恵みも少なく、上らせる信仰が多いなら、降る恵みも、多いものだ。
今回の箇所では、主の御前で、そして敵の面前で、主からの恵みをいただく人の幸いが書いてある。
詩篇23:5 あなたはわたしの敵の前で、わたしの前に宴を設け、わたしのこうべに油をそそがれる。わたしの杯はあふれます。
詩篇23篇には主エホバのご性質が8つ隠されているが、そのうちの8つ目、「ジェホバ・メカディシケム」が、この5節に込められている。
ジェホバ・メカディシケム。その意味は、「聖別する主」であり、「わたしのこうべに油をそそがれる」がそれに当たる。
主は、油を注いで下さる。それも、敵の面前で。
主を敬わない敵と、主を敬う私達の間をご覧になる時、主は、主を敬う私達のほうに御顔を向け、敵の面前で宴を設けてくださり、そして、油を注いで下さる。
この幸いを呼びこむために必要な事は、主を羊飼いとすること、主を敬う事だ。
ちょうど、主がアベルの捧げものに目を留めて、アベルとその捧げものに敬意を表したように。
主への敬いも主への正しい態度もなく、単に捧げものを持ってきただけのカインの捧げものには、主は目もくれず、一切の敬意も表さなかった事を、覚えておかなくてはならない。
このジェホバ・メカディシケムが出てくる聖書の箇所は、出エジプト記である。
出エジプト記31:13 「あなたはイスラエルの人々に言いなさい、『あなたがたは必ずわたしの安息日を守らなければならない。これはわたしとあなたがたとの間の、代々にわたるしるしであって、わたしが「あなたがたを聖別する主(ジェホバ・メカディシケム)」であることを、知らせるためのものである。
ジェホバ・メカディシケム。それは、安息日を守る人、すなわち、主を礼拝すべき日にしっかり礼拝し、世の事どもをしない、そのような人を、主は聖別して下さる。
そうであるからには、私達自身が、主に喜ばれる礼拝者である事の努力をし続けるべきである。
カインの性質を捨て、アベルのように最良のものを、最良の形で捧げようと、主を愛する心を持っている人にこそ、主は、目を留めて下さるのだ。
主は、全地を見渡し、その心が全く主とひとつになっている人を探しておられるからである。
続く節には、次のように記されている。
31:14 それゆえ、あなたがたは安息日を守らなければならない。これはあなたがたに聖なる日である。すべてこれを汚す者は必ず殺され、すべてこの日に仕事をする者は、民のうちから断たれるであろう。
なんと、安息日を聖としない人は、殺されなくてはならない、とまで記されている。主が「聖とせよ」「安息せよ」と命じられたのに、聖とせず、安息しないで、世の仕事、世の飲み食いを好んで続ける限り、主の聖、主の安息には、入れてもらえないのだ。
私達には、永遠の安息の地、天国が備えられている。だから、天を覚えて日々生きるべきだ。そうでなく、世のことばかりに捕われて、礼拝するべき日を軽んじ、主を覚えないなら、どうして天国に相応しい者になれるだろう。
ジェホバ・メカディシケム、この言葉が与えられる前の所では、主は特別な任命を、名指しして、定めている。
31:1 主はモーセに言われた、
31:2 「見よ、わたしはユダの部族に属するホルの子なるウリの子ベザレルを名ざして召し、
31:3 これに神の霊を満たして、知恵と悟りと知識と諸種の工作に長ぜしめ、
31:4 工夫を凝らして金、銀、青銅の細工をさせ、
31:5 また宝石を切りはめ、木を彫刻するなど、諸種の工作をさせるであろう。
31:6 見よ、わたしはまたダンの部族に属するアヒサマクの子アホリアブを彼と共ならせ、そしてすべて賢い者の心に知恵を授け、わたしがあなたに命じたものを、ことごとく彼らに造らせるであろう。
31:7 すなわち会見の幕屋、あかしの箱、その上にある贖罪所、幕屋のもろもろの器、
31:8 机とその器、純金の燭台と、そのもろもろの器、香の祭壇、
31:9 燔祭の祭壇とそのもろもろの器、洗盤とその台、
31:10 編物の服、すなわち祭司の務をするための祭司アロンの聖なる服、およびその子たちの服、
31:11 注ぎ油、聖所のための香ばしい香などを、すべてわたしがあなたに命じたように造らせるであろう」。
このように、主は人に知恵を与え、匠の技を与え、指導力や金銀や、その他必要なものを全て備える。
その特別な知恵が与えられた人には、「これをつくって欲しい」と言われた時、頭の中で「これとこれが必要だ」「ここにはこの材料を使おう」「ここはこのように組み立てよう」と、瞬時にイメージが組み上がり、そして精巧に動かす手が与えられるのだ。
その理由は、共にキリストのからだを建て上げるためであり、まさに、主が特別な油注ぎを与える故である。
ちょうど、ベザレルとアホリアブに、主を礼拝する所、幕屋建造のために知恵と啓示の霊を与えられたように。
「聖別」には、二つの意味がある。
一つは「委任する」、すなわち、主が、あなたには、これこれの事をする者として任命した、という事である。
主からの任命があるなら、知恵と力とわざが泉のように湧き上がり、疲れない。しかし、油注ぎもないのに、また任命もないのに、その仕事に勝手なあこがれをもって、しようとすると、何も思い浮かばず、また力も沸かない、ただ苦痛な日々を送るしかない。
逆に、任命が与えられたのにそれをしないとするのも、同じくただ苦痛な日々を送るしかない。
「聖別」の意味の 二つ目は、「聖とする」である。
聖別とは、簡単に言えば「分離」であり、けがれた者からきよい者へ、悪どい者から良い者へ、俗なる者から聖なる者へ、主から遠かった者が、主に近い方向性で、どんどん分離して行くのだ。
これら、「委任」と「聖とする」が合わさって、「職分」が与えられるのだ。
ちょうど、大祭司アロンに職分が与えられたように。
1コリント12:4 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。
12:5 奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。
12:6 働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。
12:7 しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。
12:8 ある人には御霊によって知恵のことばが与えられ、ほかの人には同じ御霊にかなう知識のことばが与えられ、
12:9 またある人には同じ御霊による信仰が与えられ、ある人には同一の御霊によって、いやしの賜物が与えられ、
12:10 ある人には奇蹟を行なう力、ある人には預言、ある人には霊を見分ける力、ある人には異言、ある人には異言を解き明かす力が与えられています。
12:11 しかし、同一の御霊がこれらすべてのことをなさるのであって、みこころのままに、おのおのにそれぞれの賜物を分け与えてくださるのです。
12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
エペソ4:11 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。
4:12 それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。
大祭司アロンには、特別に「聖」とされたしるしが与えられた。
出エジプト記28:36 あなたはまた純金の板を造り、印の彫刻のように、その上に『主に聖なる者』と刻み、
28:37 これを青ひもで帽子に付け、それが帽子の前の方に来るようにしなければならない。
28:38 これはアロンの額にあり、そしてアロンはイスラエルの人々がささげる聖なる物、すなわち彼らのもろもろの聖なる供え物についての罪の責めを負うであろう。これは主の前にそれらの受けいれられるため、常にアロンの額になければならない。
主が、特別に任命されたからには、自らを聖とするのが、主に呼び出された者の分であり、もし、牧会者が「聖」という立ち位置に立っているなら、聖徒は祝福される。
「神よ、この病人に手を置けば癒やされますように」という事を願うよりも、むしろ「わたしが聖化されたものである」という事を追求するべきなのだ。
神が用いられる器は、聖潔。きよい器でなければ、聖霊は働かない。
たとえ過去どんな罪を犯していても、現在、「今、あなたは聖を歩んでいますか??」という志の内に歩む事が重要だ。
今、聖である歩みを、実行していかなくてはいけない。今を大事に生きる人にこそ、主が働くからだ。
罪は、悔い改め、常習犯的な罪を、今、やめる、それを続けて行く事の繰り返しである。
祭司がきよければ、その祈りは聞かれる。だから、きよくなるために、たゆまず努力する。それが、聖霊充満の秘訣である