メッセージ - いのちが流れ出て行くために(エゼキエル37-47章)

いのちが流れ出て行くために(エゼキエル37-47章)

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執筆 : 
pastor 2017-5-19 7:33

いのちが流れ出て行くために(エゼキエル37-47章)
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※メッセージテキストは後程アップします。
(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)

37:1 主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。そこには骨が満ちていた。
37:2 彼はわたしに谷の周囲を行きめぐらせた。見よ、谷の面には、はなはだ多くの骨があり、皆いたく枯れていた。
37:3 彼はわたしに言われた、「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」。わたしは答えた、「主なる神よ、あなたはご存じです」。

日本には1500年代、福音が入り、多くの人々が福音に触れたが、やがて彼らは迫害され、多くの殉教者の血が流された。
果たして、切り殺され、干からびてしまった骨々は生き返る事が出来るだろうか?
主こそ、ご存知である。

37:4 彼はまたわたしに言われた、「これらの骨に預言して、言え。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。

干からびてしまった骨に対しても、御言葉を語ると、変化が起きる。

37:5 主なる神はこれらの骨にこう言われる、見よ、わたしはあなたがたのうちに息を入れて、あなたがたを生かす。
37:6 わたしはあなたがたの上に筋を与え、肉を生じさせ、皮でおおい、あなたがたのうちに息を与えて生かす。そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」。
37:7 わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。
37:8 わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。

主は、死んだような状態から生き返らせて下さる事をされる。かつては骨のような状態から人並みの状態にまで戻されたキリスト者は大勢いるし、そのように求めている人は多い。
しかし、「神の息」が無い状態では、マネキンのように死んだも同然の、「行い」の無い信仰状態である。
だから神の息、神のルアッハ、神の霊が必要である。

37:9 時に彼はわたしに言われた、「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。
37:10 そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆(Force, Army)となった。

主の霊が入るなら、自分の足で立てなかった者も立ち、暗闇の王国、サタンの座をも、大胆に攻撃し勝ち取る大いなる軍隊になる事が可能なのだ。

主の息、それは、全地を覆っている。
創世記1:2の、あの暗闇と混沌の中で、主の霊はめんどりがひなを覆うように覆っていた。

ヨブ38:7 かの時には明けの星は相共に歌い、/神の子たちはみな喜び呼ばわった。
38:8 海の水が流れいで、胎内からわき出たとき、/だれが戸をもって、これを閉じこめたか。
38:9 あの時、わたしは雲をもって衣とし、/黒雲をもってむつきとし、

天地が創造された時、海の水が胎内から破水して出た時、それを主は乱雑に広がらないよう閉じ込め、主の霊によって覆い、むつき(ハトラー)によって守り囲っていた。
混沌の中においても、主の霊が覆い、守っておられるのだ。この日本を、世界を、切り殺された骨々を。

混沌と死の大地にいのちの潤いの水が流れだし、いのちの水が全地を覆うようになるために、どうすれば良いか。
続くエゼキエル書の箇所に、その答えがある。

40:1 われわれが捕え移されてから二十五年、都が打ち破られて後十四年、その年の初めの月の十日、その日に主の手がわたしに臨み、わたしをかの所に携えて行った。
40:2 すなわち神は幻のうちに、わたしをイスラエルの地に携えて行って、非常に高い山の上におろされた。その山の上に、わたしと相対して、一つの町のような建物があった。

エゼキエルは、バビロン捕囚下のイスラエルの民に、主の言葉を伝える預言者として用いられた。
この時代、ソロモンが建てた豪華絢爛な神殿は、イスラエルが代々犯して来た罪の故に、異邦人に破壊され尽くした後だった。神殿が打ち壊されてから十四年後、彼は、主が見せられた幻の内に、非常に高い山の上に建てられた、人のものならぬ神殿へと上げられた。

『神がわたしをそこに携えて行かれると、見よ、ひとりの人がいた。その姿は青銅の形のようで、手に麻のなわと、測りざおとを持って門に立っていた。 ・・・その人の手に六キュビトの測りざおがあった。そのキュビトは、おのおの一キュビトと一手幅とである。』(3-5節)
この、主の使いが持つ測りは、世の測りとは違う。人が使い慣らされたはかりに、一手幅、加えられたものだ。
人手に依らない神の宮、それは、人の常識、人の習慣的な計りでは、計る事は禁じられている。それに、一手幅加えた測りを用いるように御使いに言われた。

ヘブライ語で、ユッドには、手の意味がある。
ユッド ヘー、バブ、ヘー、これがエホバの御名であるが、そこからユッド(手)を除くとハバー、息を吹き込む、成る、という意味である。
手、イエス様の十字架で釘打たれた手、それを加えられる時、
הוה:"havah {haw-vaw'}"; a primitive root (compare 'avah, hayah) supposed to mean properly, to breathe; to be (in the sense of existence) -- be, X have.息、に、手、すなわち、イエス様の十字架で釘打たれた手、それを加えられる時、ユッド ヘー、バブ、ヘー、エホバの御名が完成し、主のわざが完成するのだ。

エゼキエル40章以降、この、人のはかりに、手幅が加えられた、人のものならぬ測りざおを用いて、主が示された新しい神殿、すなわち罪ある人間が建てたものではない神殿を、主の測りで測って行く内に、次々と、色々な示しや預言が与えられて行く。
そして、神殿の入り口に連れ戻されると、水が神殿の敷居の下から流れ出していた。

47:1 そして彼はわたしを宮の戸口に帰らせた。見よ、水の宮の敷居の下から、東の方へ流れていた。宮は東に面し、その水は、下から出て、祭壇の南にある宮の敷居の南の端から、流れ下っていた。
47:2 彼は北の門の道から、わたしを連れ出し、外をまわって、東に向かう外の門に行かせた。見よ、水は南の方から流れ出ていた。
47:3 その人は東に進み、手に測りなわをもって一千キュビトを測り、わたしを渡らせた。すると水はくるぶしに達した。

人のものならぬ主の建てた神殿を、主の測りに従って測って行くなら、いのちを潤す水が流れ出して来る。
まことの神殿は、イエス様であり(ヨハネ2:21)、この神殿を、主の示す物差し、すなわち御言葉によって正しく測り、寸法もきっちり正しく調べて行くなら、行く程、いのちの水、潤す水が内から流れ出して行くのだ。

47:4 彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水はひざに達した。彼がまた一千キュビトを測って、わたしを渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がまた一千キュビトを測ると、渡り得ないほどの川になり、水は深くなって、泳げるほどの水、越え得ないほどの川になった。
47:6 彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。
47:7 わたしが帰ってくると、見よ、川の岸のこなたかなたに、はなはだ多くの木があった。

流れ出したいのちの流れを、主の測りで測る毎に、その潤す水、いのちの水は、どんどんかさが増していく。最初は足首ほどから、次にひざ程、次に腰ほどに、そして、渡る事にできない川にまで至る。
『彼はわたしに「人の子よ、あなたはこれを見るか」と言った。それから、彼はわたしを川の岸に沿って連れ帰った。』(6節) 私達も、流したら流しっぱなしではなく、結果、どんな実を結んだか、見に戻るべきだ。

47:8 彼はわたしに言った、「この水は東の境に流れて行き、アラバに落ち下り、その水が、よどんだ海にはいると、それは清くなる。
47:9 おおよそこの川の流れる所では、もろもろの動く生き物が皆生き、また、はなはだ多くの魚がいる。これはその水がはいると、海の水を清くするためである。この川の流れる所では、すべてのものが生きている。
47:10 すなどる者が、海のかたわらに立ち、エンゲデからエン・エグライムまで、網を張る所となる。その魚は、大海の魚のように、その種類がはなはだ多い。

水は、神殿の聖所から流れ出ている。まことの神殿はイエスキリストであり、私達もイエス様を信じる時、「腹(コイリア:下腹、子宮、知情意の座)」の奥底から、生ける水が川々となって流れ出るようになる。(ヨハ7:38)
その”水”が入るなら、その水は良くなるため、生き物が群がるようになり、非常に多くの魚がいるようになる。
この水が流れこむなら、死海さえいのちが多くなり、海岸には漁師達が住むようになり、網を引く場所となる。
死海のようだったサマリヤの女も、イエス様を受けた時、いのちが湧き出し、いのちが群がるようになった。

『ただし、その「沢(ビツサァー:沼地、湿地帯)」と「沼(ゲベー:貯水池、プール)」とは清められないで、塩地のままで残る。』(11節)
水が流れず留まっている所、人為的に水を貯めこむような所は、良くならず、塩のまま残ってしまう。どんなに良質の御言葉が流れて来ても、どんなにイエス様の魅力を教えられても、ただ受けるばかり・頂くばかりで、流し出さないなら、塩のまま残り、死海のように、いのちがいなくなってしまう。
御言葉のいのちが流れこんで来たなら、それが口まで溢れているなら、留めて置いてはならない。御言葉も、ただ暗記するだけで、宛先が明確でないなら、宛先不明の手紙のように、どこぞに落ちてしまうのだ。


47:12 川のかたわら、その岸のこなたかなたに、食物となる各種の木が育つ。その葉は枯れず、その実は絶えず、月ごとに新しい実がなる。これはその水が聖所から流れ出るからである。その実は食用に供せられ、その葉は薬となる」。

毎月実が成る・・・一体どれだけ多産で、いのちに溢れているのだろうか。
私達の内に、キリストという、生ける水のいのちの泉を据えるなら、御霊の実は何も頑張らずとも、自然と、絶える事なく、実らせ続けるものである。そしてそれは自分ばかりでなく、周囲も潤し、癒やすものとなる。
人の建てた神殿を、人の物差しで測っても、ただ疲れるしか無いが、人のものならぬ、主の建てた神殿・イエス様を、主の物差しである御言葉に従って測って行くなら、いのちを潤す水がどんどん流れ出して来る。
この、いのちの源・イエス様を御言葉で正しく測り、泉を湧き出させ、湧き出る水を測って、ますます流し出し、多くのいのちと実りを獲得して行く時、主のいのちの水を流し出す者となり、ついには全地を主のくださる潤いの水が、「腹(コイリア:下腹、子宮、知情意の座)」の奥底から、生ける水が川々となって流れ出るようになる。(ヨハ7:38)

ハバクク2:14 海が水でおおわれているように、地は主の栄光の知識で満たされるからである。

この言葉が成っている事を、信じるだろうか?
アーメン、今、いかに混沌に見えるような現状でも、主の霊は覆っており、そして私達が主の与えてくださったはかりで計る時、いのちの水が流れていき、いのちが実体化して行くのだ。
なぜなら、福音の伝達は、人間の、伝道の愚かさによって成就して行くようにと、主が定められたからだ。

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