メッセージ - マナセ - 南ユダ王国最悪の王(2列王記21:1-15)
マナセ - 南ユダ王国最悪の王(2列王記21:1-15)
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ヒゼキヤは良い王として記されている。しかし、彼が主から死を宣告された時、彼は祈って、主は彼の命を15年伸ばして下さったが、その15年は、良いものではなかった。
彼は、バビロンから来た使者に、宝物庫を見せ、武器庫を見せ、彼が主からいただいた栄光の品々をことごとくひけらかしてしまった。
それによって、将来、バビロンに見せた全てがバビロンによって奪われてしまう日が来る、と、イザヤから警告されたのに、ヒゼキヤは、自分の代には災いは降らないとたかをくくり、適当な返事をして悔い改めなかった。
彼は、15年命が引き伸ばされた事によって、たかをくくるような事をしたが、人は、知らないほうが良いことがある。
もし、アブラハムが召し出されたばかりの時、最初から神が立てておられた先々の事も教えておられたら、どうだっただろう。彼は将来、100歳になってからやっと子供が与えられ、その子は神に捧げなくてはならず、また、彼が生きている間は、マクペラの畑にある洞穴しか土地が与えられない、と、全行程が最初に示されていたら、彼もまた、カランから出ないままだったかもしれない。
会社や政治は、何も隠し立てせず全てを晒すべきだ、という人もいるが、私達は、神のご計画を何もかも知る必要は無い。
神は、なぜ、事を知らせない事のほうが多いのか。なぜ、物事を隠されるのか。
それは、人が「知る」事によって、罪を犯すという事をさせないためである。そして正しい道に歩ませるためである。
ヒゼキヤは、いのちの尽きる日を「知って」しまった故に、好き放題な事をし、また、バビロンに全て手の内を「知らせて」しまった故に、それらは将来奪われてしまう事になってしまった。
ヒゼキヤは、伸ばされた15年の3年目に、マナセが生まれた。
21:1 マナセは十二歳で王となり、五十五年の間、エルサレムで世を治めた。母の名はヘフジバといった。
21:2 マナセは主がイスラエルの人々の前から追い払われた国々の民の憎むべきおこないにならって、主の目の前に悪をおこなった。
21:3 彼は父ヒゼキヤがこわした高き所を建て直し、またイスラエルの王アハブがしたようにバアルのために祭壇を築き、アシラ像を造り、かつ天の万象を拝んで、これに仕えた。
マナセは、父ヒゼキヤがせっかく断ち切ったあらゆる悪しき習慣や偶像を、ことごとく復活させてしまった。
主は、見えないお方である。彼は主はいないと思って悪を行ったのかもしれないが、しかし2節にある通り「主の目の前に悪をおこなった」のだ。
私達はいつも主の眼差しを意識するべきである。
21:4 また主の宮のうちに数個の祭壇を築いた。これは主が「わたしの名をエルサレムに置こう」と言われたその宮である。
主の宮には、主の御名が置かれている。
その、主の面前に、彼は主が忌み嫌われるものを、恐れなく、平然と置いたのだ。
なぜ、こんな王が生まれてしまったのか。
彼は12歳で王になったが、きっと彼はその12年間、御言葉によって戒められる事なく甘やかされて育てられてしまったのだろう。
21:5 彼はまた主の宮の二つの庭に天の万象のために祭壇を築いた。
21:6 またその子を火に焼いてささげ物とし、占いをし、魔術を行い、口寄せと魔法使を用い、主の目の前に多くの悪を行って、主の怒りを引き起した。
再び「主の目の前に」多くの悪を行ったと記されている。
主の眼差しを無視し、自分の欲望を満足させるためには、自分の子さえも焼いてしまう。
マナセはそこまで、欲望に忠実に、そして主に対して不忠実な事をしてしまった。
21:7 彼はまたアシラの彫像を作って主の宮に置いた。主はこの宮についてダビデとその子ソロモンに言われたことがある、「わたしはこの宮と、わたしがイスラエルのすべての部族のうちから選んだエルサレムとに、わたしの名を永遠に置く。
21:8 もし、彼らがわたしが命じたすべての事、およびわたしのしもべモーセが命じたすべての律法を守り行うならば、イスラエルの足を、わたしが彼らの先祖たちに与えた地から、重ねて迷い出させないであろう」。
主の宮は、主を礼拝する場所である。主の面前である事を特に意識する場所である。
そこに、彼は異教の像を置いた。
私達も、礼拝という主を意識し主に捧げるべき時間、場所において、思いの中に「異教」を置いて罪を犯していないだろうか。
体だけは礼拝に参加し、思いの中は別の考え、別の教えを意識し、贖い主イエス様よりも、そちらのほうを頼りとし主体としているなら、マナセと同じ事をしている。
21:9 しかし彼らは聞きいれなかった。マナセが人々をいざなって悪を行ったことは、主がイスラエルの人々の前に滅ぼされた国々の民よりもはなはだしかった。
21:10 そこで主はそのしもべである預言者たちによって言われた、
21:11 「ユダの王マナセがこれらの憎むべき事を行い、彼の先にあったアモリびとの行ったすべての事よりも悪い事を行い、またその偶像をもってユダに罪を犯させたので、
マナセは、主から、カナンの先住民よりも悪辣だと評価されている。
カナンの先住民は確かに邪悪な事を行っていたが、主の御言葉を知らず、主の道を知らなかった。
しかしマナセは、主の民であり、主の御言葉は知っていたはずなのに、それでも敢えて主の道に反したのだ。
その罪は、非常に重い。
21:12 イスラエルの神、主はこう仰せられる、見よ、わたしはエルサレムとユダに災をくだそうとしている。これを聞く者は、その耳が二つながら鳴るであろう。
21:13 わたしはサマリヤをはかった測りなわと、アハブの家に用いた下げ振りをエルサレムにほどこし、人が皿をぬぐい、これをぬぐって伏せるように、エルサレムをぬぐい去る。
21:14 わたしは、わたしの嗣業の民の残りを捨て、彼らを敵の手に渡す。彼らはもろもろの敵のえじきとなり、略奪にあうであろう。
21:15 これは彼らの先祖たちがエジプトを出た日から今日に至るまで、彼らがわたしの目の前に悪を行って、わたしを怒らせたためである」。
これは、今までの王達に対しては無かった警告である。
「サマリヤをはかった測りなわと、アハブの家に用いた下げ振りをエルサレムにほどこ」す。
つまり、エルサレムさえも、主に対する反逆を続けて行くなら、サマリヤがそうなったのと同じく破壊され、捕囚され、散り散りにされてしまう。
それも、彼らを「アハブの家」と同列にして、主は評価している。
私達はこれを歴史の一出来事としてではなく、自分に対する戒めとして受けるべきである。
主からいただいた恵み、憐れみ、ゆるしを軽んじ、ないがしろにし続けて行くなら、やがて、アハブの家に起こされたのと同じように、また、南ユダ王国がバビロンによって破壊し尽くされてしまったのと同じように、されてしまうのだ。
マナセは、これらの預言者の言葉にどう対応したか。
16節には、彼は罪なき者の血を多く流して、エルサレムのあちら、こちらに満たした、と記されている。
きっと彼は、自分の意にそぐわない者、気に食わない者を、所かまわず、次々と殺したのだろう。
そして彼は、主が警告を与えるために遣わした預言者たちの血を、多く流したのだろう。
主の恵みの秤は、確かに、私達に向けられている。
しかしその秤には限度があり、その恵みの秤の分量を使い果たしてしまう時、滅びの災いに追いつかれてしまうのだ。