メッセージ - 「男性と女性」という点から見る聖書(創世記1:1-5)
「男性と女性」という点から見る聖書(創世記1:1-5)
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週報/メッセージ(説教)概要
ヘブライ言語はヨーロッパ言語のように、名詞や動詞に「性」の概念がある。創世記1:1-2の名詞や動詞を「性」という面から見ると、神と被造物との間が、男女の人格的なやりとりであるかのように見えてくる。
『はじめ(女)に神(男)は天(男)と地(女)とを創造(男)された。地(女)は形なく(男)、虚しく(男)なってしまい、闇(男)が淵(女)の面(男)にあり、神(男)の霊が水の面(男)を覆って(男)いた。』(創世記1:1-2)
このように「性」という面にスポットライトを当てると、この箇所は、ある男女が織りなすストーリーに見えてくる。
すなわち、ある男性が、ある女性を見初め、一つの家庭を構築しようとした。けれども女性は、別の男に破壊され、虚しくされ、闇の淵に落とされてしまった。それでもかの男性は、女性を覆っていた…というような。
聖書はまさに、そういう内容だ。人は本来、神と共に歩み、神の愛の交わりの中で、幸せに永遠に生きていくはずだったが、人はサタンにそそのかされ、神を裏切って虚しくなり、死の淵に落ち込んで、「呪い」と「滅び」という借金地獄に陥ってしまった。聖書の一つ一つの出来事の裏に、多くのうめきと悲しみがある。
裏切られてしまった「神(男性)」の側のうめき悲しみと、裏切ってしまった「人(女性)」の側のうめきが。
全被造物(女性)は、うめいている。全能の神(男性)によって、贖われる事を求めて。(ロマ8:19-23)
それで神は全ての人に「贖い(買い戻し)」の衣を広げ、今なお一人一人を贖い出そうとし続けておられる。
買い戻されて覆われる事こそ、全被造物の切実な願いである。ちょうどルツが、自分を買い戻す責任のある男性、ボアズに願い出たように。『わたしはあなたのはしためルツです。あなたのすそで、はしためをおおってください。あなたは「最も近い親戚(ガアル:家を絶やさない責任のある者)」です。』(ルツ3:9)
主はホセア書を通しても、裏切った女(イスラエル)に対するうめきを表現し、同時に「贖い」を宣言しておられる。主は預言者ホセアに、「姦淫の女をめとれ」と命じ、ホセアはその通りに実行するのだが、その女は、姦淫するために出て行ってしまった。夫に愛され、夫の子を産んでいるというのに。そこで主は言われる。
『「あなたは再び行って、イスラエルの人々が他の神々に転じて、干ぶどうの菓子を愛するにもかかわらず、主がこれを愛せられるように、姦夫に愛せられる女、姦淫を行う女を愛せよ」と。そこで私は銀十五シケルと大麦一ホメル半とをもって彼女を買い取った。私は彼女に言った、「あなたは長く私の所にとどまって、淫行をなさず、また他の人のものとなってはならない。私もまた、あなたにそうしよう」と。』(ホセア3:1-3)
律法に照らすなら死刑のはずの、姦淫で裏切った女に、やさしく声をかけ、買い戻し、「もう他の所に行くな、いつまでもわたしの所にとどまれ」と言う。これはまさに、イエス様と私達の関係と全く同じだ。
ホセアとイエス様の名前は共に「救い」という意味であり、ホセアは全人類を買い戻すイエス様の雛形だ。
私達の主イエス様は、罪に裏切ってしまった私達人間にやさしく声をかけ、本来私達が受けるべき罪の刑罰を、十字架の上で、身代わりに受け、「神の子の命」という大きな代価をもって買い戻して下さった。
虚しくなってしまった全被造物を買い戻される、唯一のキーパーソンは、まことの光なるイエス様である。
創世記1:2において、虚しくなってしまった地(女)を、神は覆っておられたが、ある時、神は宣言される。
『神は「光あれ」と言われた。すると光があった。神はその光を「見て」、「良し(トブ)」とされた。神はその光とやみとを分けられた。』(創世記1:3) 神はそれまで闇だった世界に光を宣言し、光を見て「よし」とされた。
神は創造のわざを進めて行かれる度に、それを見て「よし」と言われる。主の目に「よしとされる」事こそ、私達の目標だ。神が「ことば」によって創造された全ての御業は、全て「よし」である。いかに滅びの運命を背負ってしまっている人間でも、神と共に歩み、御言葉の通りに行って行くなら「よし」になって行くのだ。
神のご性質は光であって、闇ではない。神の御業は秩序であって、混沌ではない。神は人間と全被造物の秩序を回復させ、人が健全に住めるよう、丁寧に再構築して行く、というのが、全聖書の内容である。
そして聖書の最後・黙示録は、まことの花婿であるキリストと、その花嫁・教会との結婚で締めくくられ、神と人とが永遠に共に生きる事で終わっている。永遠のいのちは存在するし、永遠のさばきも存在する。
私達は、永遠のいのちに入るために、そして今生きているこの人生を、秩序と神の「よし」で満たすために、私達を命がけで愛して下さったイエス・キリストを愛し、彼の御言葉どおりに生きて行くべきだ。それこそ真に理に適った、永遠に至る充実した人生なのだから。その人生を歩んでいく皆さんでありますように!