メッセージ - 父の日礼拝:逆説から見る父子の健全な関係(2サムエル13-18章)
父の日礼拝:逆説から見る父子の健全な関係(2サムエル13-18章)
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週報/メッセージ(説教)概要
ダビデ王は自分に反逆した彼の子アブシャロムが死んだ時、激しく悲しみ、自分が死ねばよかったのに、とまで言った。父は、不器用ながらも子を愛するものである。本日・父の日は、ダビデ王とアブシャロムの、ちぐはくな父子関係と、その悲しい結果から、親子関係の避けるべき事と健全な道を「逆説的に」学びたい。
発端となった事件は、アブシャロムの妹タマルが長兄アムノンによって暴行された事だった。彼女はその後、兄アブシャロムの家で寂しく住んだが、アムノンは責任を取らされたり懲らされたりされないままだった。
彼は王の長男という事で、何かしてしまっても大目に見られて来たようである。それが積み重なると、何をしても許されると思うようになり、妹に対する汚れた情欲さえ、制する事をしなくなってしまう。
ダビデも過去に「性的な罪」を犯した経験があるため、うまく戒められなかったかもしれないが、それならなおさら、経験者として強く戒めるべきだった。こうして問題が扱われないまま、2年の月日が過ぎていく。
アブシャロムは静かに復讐心を蓄え、ある日、事件を起こす。彼は周到な企てをもってアムノンを殺し、祖父の所へ逃げて行った。ダビデはそんなアブシャロムを、気にかけてはいたものの、放置してしまった。
父は確かに不器用な所もあるものだが、その放置した年月がさらに父の首根っこを掴んで行き、子供に対してさらに何も出来なくなり、そうしてさらに、その子と家庭全体を破滅的な方向へと導いて行く。
「放置」は積み重なると、良からぬものが沸々と育ち、やがて取り返しが付かない事になってしまう。『むちと戒めとは知恵を与える、わがまま(シャラーハ:放任する)にさせた子はその母に恥をもたらす。』(箴29:15)
将軍ヨアブは、この「放置状態」は良くないと感じ、一計を案じてダビデとアブシャロムを引き合わせようとしたが、どういうわけか、ダビデもヨアブもさらにアブシャロムを放置してしまう。親が子に明らかに戒めたり諭すべき時に、放置し続けるなら、子はどう出るか。子は親に、火をつける行為に出るのだ。(2サム14:30)
アブシャロムは言う。「今わたしに王の顔を見させてください。もしわたしに罪があるなら王にわたしを殺させてください。 」(14:32) ここに息子・アブシャロムの本音と叫びがある。「放置」されるよりは罰されるほうがまだ楽なのだ。そうして、ようやく、父子の何年ぶりかの再会が実現するのだが、アブシャロムは父から、親らしい会話を何も引き出せなかった。妹がアムノンに陵辱されて感じて来た悔しさ、自分がしてしまった事の後ろめたさ、放置され続けた事の寂しさ、理解されない事の苦しさ・・・。
それを父に打ち明ける機会が無いまま再会は終わり、再び断絶されてしまった。アブシャロムはこれ以降、父ダビデに会う努力を一切しなくなり、その代わり、父ダビデに反逆しクーデターを起こす計画を入念に立て始める。子は、親への親密な交わりが絶望的だと分かると、ひたすら憎むべき相手として親を見るのだ。
ダビデは息子アブシャロムを愛していなかったのか?子を愛さない父はいない。ただ不器用だった故に息子を放置し、放置してしまった故に罪を犯させ、ついには、裁きが子に追いつき、失ってしまう事となる。
アブシャロムが父に反旗を翻した時、ダビデは何の抵抗もせず、逃げた。ダビデは圧倒的に不利でありながらも、息子アブシャロムには自分に免じて手心を加えてほしい、と、部下に願う。(2サムエル記18:5)
しかし戦いは、アブシャロムの呪われたような死、という形で決着がつく。ダビデは息子アブシャロムが無事かを案じ、無事であるという「吉報」が来るのは今か今か、と切望していた。あたかも放蕩息子の父が、息子が出て行った道を見ながら、いつ帰って来るだろうかと、待ち望んでいるかのように。(ルカ15章)
しかし、ダビデの「放蕩息子」は、二度と帰らなかった。「わが子アブシャロム。わが子よ。わが子アブシャロム。ああ、私がおまえに代わって死ねばよかったのに。アブシャロム。わが子よ。わが子よ。」(2サム18:33)
この悲痛な叫びは、悔い改めないまま「裁き」に追いつかれ、滅んで行ってしまった人達に対する、父なる神の嘆きでもある。アブシャロムはせっかく「父の平和」という良い名前がつけられたのに、放置され続けた故、名前とは全くそぐわない子となってしまい、ついに、父に反逆する罪への裁きが、追いついてしまった。
親子関係で最もしてはならないのが、「放置」である。親も子も一家総出で次の御言葉を守り行うべきだ。
『妻たちよ。主にある者にふさわしく、夫に従いなさい。夫たちよ。妻を愛しなさい。つらく当たってはいけません。子どもたちよ。すべてのことについて、両親に従いなさい。それは主に喜ばれることだからです。父たちよ。子どもをおこらせてはいけません。彼らを気落ちさせないためです。』(コロサイ3:18-21)
家族が固い愛の絆で結ばれ、主にある喜びと笑いがいつも絶えない皆さんの家庭でありますように!