メッセージ - 聖書に「ごめんなさい」という言葉が無い理由(イザヤ59章)
聖書に「ごめんなさい」という言葉が無い理由(イザヤ59章)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
病、貧困、悪霊などに悩まされ、祈っても祈ってもそれらにつきまとわれ続ける、という事はないだろうか。
主に祈っても願っても、全然聞かれないような、何か天が塞がれてしまっているような、あるいは、ただ主から叱責ばかりされ続けているような気がする。そのような場合の解決の示唆として、イザヤ59章を開きたい。
イザヤ書は、57章から59章の中盤までの内容は、主の側からの、人の側にある罪の指摘と叱責が記されているが、59章の後半以降、62章に至るまでは、主の慰めと祝福の預言が為されている。この59章に、呪いが祝福へと変わるターニングポイントの「鍵」があるのだ。
59章は、1-3節の主語は「あなたがた」であり、あなたがたの罪や不正が、神との隔ての壁を構築し、祈りを主に聞けなくさせている事が指摘されている。続く4-8節の主語は「彼ら」であり、その「彼ら」は悪魔の申し子のような性質で、その意図する所はただただ悪であり、好んで人々を虐げ、血を流すような者達である。
「彼ら」が好き放題に神の民を虐げるのだが、祈っても主が全く聞いて下さらない理由は既に1-3節にある。
そして、9-15節の主語は、「私たち」に変わり、9-11節では自分達の悲惨を嘆く呻きがある。自分の悲惨を嘆く「演歌」を幾ら並べ立てたり申し立てても、何も変わらない。肝心なのは次に続く節である。
12-15節に、「我々」の中に罪があって主に背いて来た事の告白がある。『我々のとがは、あなたの前に多く、罪は、我々を訴えて、あかしをなし、とがは、我々と共にあり、不義は、我々がこれを知る。』(12節)
イザヤ書の後半は、この「我々に罪がある事を認め、告白した事」で、大きなターニングポイントを迎える。
16節以降、主語は「主」に変わり、悲しみ嘆く主の民を救おうと、主ご自身が動き出し、主の民を苦しめる「彼ら」に報復し、戦われるために、主みずからが武装される様が記されている。
塞がれていた主の助けが再び流れ出す鍵が、自分自分の罪の告白と悔い改めであり、罪を認めないなら、いつまでもその追求が続く(1ヨハネ1:8-10)。アダムとエバは、自分が何をしたのか告白するべき場面で、人や状況のせいにした結果、楽園を追放され、労苦と痛みと死の呪いに、つきまとわれてしまった。
呪いにつきまとわれるコツ、いつまでもそこから脱出できないコツは、「自分の悪さを認めない事」である。
聖書には、「ごめんなさい」という日本語が一つもない事をご存知だろうか。なぜ、「ごめんなさい」という、良き日本人として生きていく上で欠かせない重要な言葉が聖書の中に無いのか。それは聖書の価値観では、「わたしは○○の罪を犯しました」が、ごめんなさいに相当する言葉だからである。ダビデは罪を犯してそれを指摘された時、「わたしは罪を犯した」とすぐに認め、それで彼は死なずに済んだ。またネヘミヤやダニエルも、自分達が主の前で、何と何と何の罪を犯して来たか、かなり詳細かつ具体的に告白している。
ある悪霊に憑かれた息子を持つ父親は、今まで何もかも人任せにしていたが、イエス様から不信仰を指摘され、悔い改めた時、イエス様は「言うことも聞くこともさせない悪霊」を追い出した。(マルコ9:23-25)
だから、自分が主に何をしたのかを明確に告白する事、そして、そこから1ミリでも離れる決心と努力をし続ける事が聖書的な正しい謝罪であり、それをしないと、罪の追求と呪いがひたすら憑き纏ってしまうのだ。
もし私達が罪を言い表さず、罪の「楽しみ」を手放す事を惜しんでそこから離れないなら、いかに病や悪霊、貧乏に「出て行け」と言っても、全然効き目は無い。なにしろ、本人自身が、その取っ掛かりとする「ネタ」を握りしめ続けている訳だから。しかし、自分の罪を主に言い表す時、病や悪霊は、取っ掛かりを失う。
サルスベリという木がある。その木はツルツルして、サルに取っ掛かりとなるものが無いので登れない、という木であるが、自分の罪を主に言い表し、悔い改めるなら、「病スベリ」「悪霊スベリ」「貧乏スベリ」となるのだ。「主イエスの名によってサタンよ去れ」という祈りより遥かに効果的なのが、告白と悔い改めである。
『主は言われる、「主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る」と。』(20)
主が「贖い主」として現れてくださるのは、とがを離れる者、悔い改める者のところに、と書いてある。
結局、罪を告白した時、主みずから助けるために動いて下さり、その結果、イザヤ60章以降の祝福がある。
しかし、自分の罪を口で言い表さず、改めようとしない人にはいつまでも、罪から、サタンから、そして主から追求され責められる事がつきまとう。日々、罪から一ミリでも離れる努力をし、罪や病、貧乏、悪霊に掴まれる所なく、祝福と幸いの日々を歩み、ますます働き人として整えられていく皆様でありますように!