メッセージ - イスラエル-ユダ-ダビデに至る系図のドラマ(1歴代誌2:1-18)
イスラエル-ユダ-ダビデに至る系図のドラマ(1歴代誌2:1-18)
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(音声データは毎週土曜日にアップ予定です)
2:1 イスラエルの子らは次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イッサカル、ゼブルン、
2:2 ダン、ヨセフ、ベニヤミン、ナフタリ、ガド、アセル。
以上はイスラエル12部族の父祖たちであり、黙示録に至るまでも残る系図の本流中の本流である。
そして歴代誌では、この中から特にユダ族、レビ族について多くの紙面が割かれ、ユダ族の本流・傍流の系図が、2:3から4:23に至るまで記されている。
2:3 ユダの子らはエル、オナン、シラである。この三人はカナンの女バテシュアがユダによって産んだ者である。ユダの長子エルは主の前に悪を行ったので、主は彼を殺された。
2:4 ユダの嫁タマルはユダによってペレヅとゼラを産んだ。ユダの子らは合わせて五人である。
ユダとタマルは、夫婦ではない。タマルは、ユダにとっては、息子の嫁、という関係である。
ユダはイスラエルの王族の父祖であり、全世界を救うメシヤの家系の家長だが、その大切な一族の初期の段階から、既に人の罪が渦巻くドラマがある。一体なぜ、このような事になってしまったのか。
『そのころユダは兄弟たちを離れて下り、アドラムびとで、名をヒラという者の所へ行った。ユダはその所で、名を「シュアというカナンびとの娘」を見て、これをめとり、その所にはいった。』(創世記38:1-2)
事の発端は、ユダが、神に召された家族の元を離れ、異邦人の地に行き、異邦人の娘を見て、それを妻とした所に始まる。
そのカナンの女・バテシュアは「シュアの娘:叫びの娘」という意味で、ようするに、女の名前は分からない。名前すら記される程のものではなかったのだ。
この異邦人の女との間に最初に生まれた息子・エルは、ユダ自身が名付けたが、2番目・3番目の息子はこのシュアの娘が名付けたようである。(同3-5節) 異邦人の妻と暮らしていく中で、ユダの家長としての権威はますます弱くなり、異邦人の娘の影響力がますます大きくなって行ったのだろう。
長子エルは主の前に悪を行ったので、主は彼を殺されたのみならず、創世記を見ると、次男オナンもまた主の目に悪を行ったので、彼も主に打たれて死んでしまった。
息子が二人死んでしまったので、ユダはタマルが縁起悪いと思ったのだろうか、彼女を三男から遠ざけた。
しかし、息子二人が死んでしまったのは、書いてある通り、息子たち二人が、主に逆らったからである。
そしてこの三男シェラも、主に打たれて死ぬ要素が、十分にあった事を、ユダ自身認めていたのだろう。
ユダは、タマルを遠ざけるよりも、自分達の内にある神に嫌われる性質を遠ざけるべきだったのに、それをせず、一人の弱い立場の女性・タマルを遠くにやって、嫌な事はうやむやのまま、葬り去ろうとした。
しかし、神に属する一族にあっては、罪の問題やいのちを生む事、神へ果たすべき責任を、うやむやのまま先延ばしにして、そのままフェードアウト出来るわけは無いのだ。
ユダは悔い改めを先延ばしにしてしまった結果、後に神と人の前でとても恥ずかしい思いをする事となる。
主は、ユダの家系を神の民へと整えるために、まず、家の清めから始める。すなわち、家の中から、主に逆う者、家全体を災いへと導く事を止めない者を、まず取り除かれる。
『日がたってシュアの娘ユダの妻は死んだ。その後、ユダは喪を終って・・・』(創世記38:12)
この「喪を終って」と訳された語「nacham」は、「慰める、あわれむ」という意味がある。
「叫びの娘」という妻が死ぬ事によって、夫であるユダは、慰めを受けた。。。
どんな人であれ、家族の死は、痛く悲しいものがある。しかし、家の中から「叫びの娘」が除かれ、主に逆らう人達が取り除かれるなら、後々、主をほめたたえる家の将来は、慰めを受けるのだ。
嫁のタマルは、バテ・シュアと違って出生元は記されていない代わりに、名前は記されている。
彼女は、この神の民の家系の恐ろしさ、そして、素晴らしさを思い知っただろう。それで彼女は、いのちを賭けて、子を得るための行動に出る。
ユダはその後、ティムナに上り、自分の羊の毛を切る者のところへ行った。タマルはそれを聞くと、やもめの服を脱ぎ捨て、遊女の格好をし、ユダが通りそうな道の傍らに座った。それは、シェラが成人したのに、ユダは約束どおりに行わず、自分がその妻にされないのを知ったからである。(創世記38:13-14)
ユダは、遊女の格好をしたタマルを見ると、まんまと引っ掛かり、二人は交渉し、そしてペレツとゼラフを産む。
ユダとタマルという父母の馴れ初め話(?)は、最悪な部類に入ると言えるだろう。しかしなんと、タマルの子ペレツは、後にはイスラエルの中で、祝福の代名詞となった。(ルツ4:12)
いかに父母の最悪な行為によって生まれた子でも、祝福の代名詞にまでなれるのが、栄光の家系の不思議であり、神の民の醍醐味であり、キリストによって神の民に加えたらた私達には、慰めである。
2:5 ペレヅの子らはヘヅロンとハムル。
このペレツが、正統なダビデ王家の本流となる。
ペレツは、元々、弟になるはずで、ゼラフが兄となるはずだった。しかし、この双子が母のタマルから生まれる時、ゼラフは手首だけ先に出たので、赤い印を手首につけられたのに、再び母の胎に戻ってしまい、ペレツが先に出てきたので、ペレツが長男となった。
母の胎から出てくる、その数時間の「競争」が、永遠の栄光の家系に入れたか、入れなかったかを切り分けた。
そう、私達も、この世という、永遠の目から見たら「わずか数時間の競争」が、永遠を決定するのだ。
栄光を手にするために努力するか、それとも、肉の心地よさに戻ってそれを逃してしまうか。
まことに系図をみる時、その連続ドラマを、またたく間に見せてくれる。
傍流であるゼラフの系図は、6-8節の3節にしるされている。しかも、悪い意味の教訓のために、である。
2:6 ゼラの子らはジムリ、エタン、ヘマン、カルコル、ダラで、合わせて五人である。
2:7 カルミの子はアカル。アカルは奉納物について罪を犯し、イスラエルを悩ました者である。
2:8 エタンの子はアザリヤである。
このアカルは、ヨシュア記で言う所のアカンである。
彼は、滅ぼしつくすべきものを自分の手元に保持したため、彼のみならず、イスラエル全体が戦いに勝てなくなってしまい、結局、彼のみならず、彼の子達もすべて滅ぼし尽くされてしまった。
神の民の系図の枝から、子々孫々とも、切って捨てられてしまったのだ。
私達も、まことのぶどうの木であるイエス様につながり、神の民の枝とされた。
その私達は、実を結ばないで切って捨てられるものではなく、キリストに繋がり続け、豊かな実を結ぶものとなるべきだ。
2:9 ヘヅロンに生れた子らはエラメル、ラム、ケルバイである。
2:10 ラムはアミナダブを生み、アミナダブはユダの子孫のつかさナションを生んだ。
2:11 ナションはサルマを生み、サルマはボアズを生み、
2:12 ボアズはオベデを生み、オベデはエッサイを生んだ。
9-12節は、ダビデ王家の本流が、ヘツロンからエッサイまで直接記されている。
マタイの系図には遊女ラハブやモアブ人ルツの名も記されているが、ここにはそれは無い。
2:13 エッサイは長子エリアブ、次にアビナダブ、第三にシメア、
2:14 第四にネタンエル、第五にラダイ、
2:15 第六にオゼム、第七にダビデを生んだ。
2:16 彼らの姉妹はゼルヤとアビガイルである。ゼルヤの産んだ子はアビシャイ、ヨアブ、アサヘルの三人である。
2:17 アビガイルはアマサを産んだ。アマサの父はイシマエルびとエテルである。
2:18 ヘヅロンの子カレブはその妻アズバおよびエリオテによって子をもうけた。その子らはエシル、ショバブ、アルドンである。
エッサイの子たち、すなわちダビデの兄弟姉妹たちが記されている。
特にツェルヤの子ヨアブは、有能な将軍であったが、王であるダビデの言葉に何度もそむき、むしろダビデに意見するような傲慢と、罪のない人の血を流し続けたゆえに、殺されてしまった。
以上のように、主を敬い、その御言葉を大切にする人は、主から大切にされ、祝福の子々孫々を得ていくが、主を軽んじ、その御言葉をないがしろにするものは、せっかく栄光の家系に生まれても、その系図という木からは切り離され、火に投げ込まれてしまうのだ。