メッセージ - はじめから愛しておられた神(第一ヨハネの手紙1:1-4)
はじめから愛しておられた神(第一ヨハネの手紙1:1-4)
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週報/メッセージ(説教)概要
神は何故、人に、神を裏切る自由さえ与えたのか。こんな罪の苦しみを味わうくらいならいっそ与えなかったほうが良かったのに、と思う方もいるかもしれない。今回、神が人に自由を与えた理由を見ていきたい。
聖書には「はじめに」で始まる箇所は3箇所ある。聖書の最初・創世記1:1と、ヨハネによる福音書1:1、そして今回の、第一ヨハネの手紙1:1であるが、それぞれの「はじめ」は、違う意味を持っている。
神は時間・空間のある宇宙を創造する前から存在された。神の名は「わたしはある(エフエ・アシェル・エフエ)」、エフエは人格的存在を表すBE動詞「ハヤー」で、それが神のアイデンティティであり、名である。
その神が、悠久永遠へ、「時間」という切り身を入れた(バラ)瞬間が、創世記1:1の「はじめ(ベレシート)」である。それに対しヨハネ1:1の「はじめ(アロケー)」は、時が創られる前、永遠という「はじめ」である。ヨハネ1:1で「あった」と訳されている語は、人格的存在をあらわすギリシア語BE動詞「エイミー」で、正確には「おられた」である。第一ヨハネの「はじめ」も、時間が存在する前の「はじめ」であるが、この箇所は「はじめから存在されたお方・キリスト」のご性質で満ち満ちている。すなわち、はじめからおられたキリストは、私達が耳で聞き、目で見、手でさわれる「いのちのことば」、愛なるお方、罪を赦すお方として、私達に現れた。
イエス様は私達を「在らせる(ハヤー、エイミー)」お方であり、人も時間も「在る」前・ベレシートの前から、父なる神は、天のあらゆる霊的祝福で私達を祝福し、御前で清く傷の無き者と「在らせる」ように、キリストにあって選び、神の子という身分を授けようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのだ。(エペソ1:3-6)
父なる神は、世界の創られる前から、私達人間を、他のどんな被造物とも違う「自由意志を持った」「神の似姿」として「人」を創造しようと、念頭に置き、創世のわざを行われた。
キリストは、人が存在する以前から人を愛し、妻として定め、共に住むための家(宇宙)を創り、たとえ人が「自由意志」を用いてご自分を裏切ったとしても、十字架上でいのちを捨てて贖うほどの完全なる愛で、人を愛しておられたのだ。先々週のコーエン講義で学んだ通り、創世記の「ベレシート(בראשׁית)」のヘブライ語の中には、「בית ベイト:家」があり、「בר バル:息子」があり、「בראバラ:創造」があり、「שי シャイ:贈り物」があり、「ת タウ:十字架」があり、「ברשיベロシュ:頭」があり、「שיתシット:いばら」があり、「ברית ベリット:誓い」があり、「אשתアシット:妻」がある。主はベレシートの前から、全てを見込んでおられたのだ。
このとてつもない神の愛とご計画は、親と赤ちゃんの関係から、なんとなく理解できるかもしれない。
親は普通、自分の似姿である赤ちゃんが胎に宿ったと知った瞬間、両手放しでその存在を喜び、親や友人達に喜びを言い広め、赤ちゃんのために色々な準備をする。赤ちゃんが宿るためのベビーベッドやベビーカーを買い、赤ちゃんが社会で生きるための諸々の手続きをする。同様に神様も、私達が存在する前から私達を喜び、大切にし、もろもろの法則を定め、人が宿るための壮大なベビーベッド・「宇宙」を創った。
親は飽きもせず赤ちゃんに笑顔を向け、あやしたり、愉快に感じるようベビーカーをゆらゆら揺らしたりする。
神様も、神の子である私達に御顔を向け、宇宙や地球をゆらゆら動かし、あらゆる良いものを周りに配置し、快適に生きられるようにしておられる。 赤ちゃんは、自分をあやしている親が、どんなに自分を愛し、大切に思い、より良く生きられるようにと働いて、あらゆる努力をしてくれているとは、つゆにも思わず、ただ受けているだけだが、神と人との関係もまた、同様である。ただ神は、スケールがあまりに大きいのである。
もし赤ちゃんが機嫌を損ねるなら、親は慌てて、機嫌を損ねる原因を除こうとする。もしわがままになって意図的に悪い事をするなら、心を痛めながらもお仕置きする。そして、いつも心配する。自分の手が届かない所で、危ない事はしまいか、と。神様も、同じである。神様は私達が最善の道に歩めるように、全てを整え、もし、悪の道・滅びの道に行こうとするなら、心を痛めつつもお仕置きする。そして、心配する。ご自身の手の届かない所で、自分を滅ぼすような事はしまいか、と。神は手が短くて救えないのではない。
人の側の反逆と罪が、神との隔ての壁となって、救いを届かなくさせてしまっているのだ。(イザヤ59章)
神は人の自由意志を尊重されるお方であり、人が神に助けを求めない以上、神は助けたくても助けられない。神を求めていないのに助けられているとしたら、それは一方的な恵みであり、一時的である。
その恵みの時に、神を愛し、神と共に歩もうと続けて行くなら、神はその人を愛し、神の子としてますます建て上げ、ついにはキリストの妻として迎えて下さる。それ程までに神は、人を特別扱いしておられるのだ。
神のこよなき愛と、そのご計画の深さがいかほどであるのか、さらに知る事ができる私達でありますように!