メッセージ - 主を礼拝すべき時、主を敬うべき場所を軽んじる者に用意されている災い(レビ記26章)
主を礼拝すべき時、主を敬うべき場所を軽んじる者に用意されている災い(レビ記26章)
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- 執筆 :
- pastor 2017-8-7 6:49
主を礼拝すべき時、主を敬うべき場所を軽んじる者に用意されている災い(レビ記26章)
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レビ記26章も申命記28章同様、祝福と呪いの箇所であり、祝福の明細よりも呪われる事の明細のほうがはるかに多い。
レビ記26章の特徴的な事は、主を敬わない事を続けるなら、その刑罰としての呪いがさらに7倍重くなり、それでも主を敬わない事を続けるなら、さらに7倍重くなる、と、段階的に、主を敬わない事の呪いが重くなっていく事である。
その、最も基本的な事は、次の事である。
26:1 あなたがたは自分のために、偶像を造ってはならない。また刻んだ像も石の柱も立ててはならない。またあなたがたの地に石像を立てて、それを拝んではならない。わたしはあなたがたの神、主だからである。
これは十戒の中でも最も基本的な事である。十戒のうち、第1−4戒は神との関係の戒め、第5-10戒は人との関係であるが、ことばの分量的には、神との関係のほうがはるかに多い。(出エジプト記20章)
偶像礼拝は、神以外のものを神とする事だが、礼拝よりも御言葉よりも、それ以外のものを大事にするなら、それは偶像礼拝となり、呪われるための条件となってしまう。
26:2 あなたがたはわたしの安息日を守り、またわたしの聖所を敬わなければならない。わたしは主である。
すなわち、主を覚え主を敬うべき時、場所をわきまえ、主を恐れよ、という事である。
列王記を見ると、主を礼拝するべき聖所を軽んじ、主を敬うべき時である安息日や祭りの日を軽んじた王達は、必ず衰退して来た。
しかし、主を重んじて礼拝を守り、聖所を建て直した王は、必ず栄えた。
主の御言葉を守り行う人には、時に叶った雨が与えられ、蒔いた種に対し、大地には産物が、仕事場には勤労の実が、豊かに与えられる。
『あなたがたの麦打ちは、ぶどうの取入れの時まで続き、ぶどうの取入れは、種まきの時まで続くであろう。あなたがたは飽きるほどパンを食べ、またあなたがたの地に安らかに住むであろう。』(レビ記26:5)
麦の収穫は春のイースター時期に始まり、ぶどうの取り入れは九月ごろである。つまり、麦打ちが春から秋までずっと続く程の、大収穫が与えられる、という事である。
そんなに大量に穫れてどうするのか、と思うだろうか?
主に従順な世代のイスラエルは、それこそ、ねずみ算式に増えて行くのであるから、主は、食料をそれ程に豊かな実りをもたらして下さるのである。
だから、教会に人数が大いに増えたらどうしよう、食事や集会の場所はどうしよう、などという「嬉しい心配」さえ、無用である。主がその全てをちゃんと備えて下さるから。
主の御言葉を守り行うのであれば、全ての獣の危険から守られ、安息が与えられ、安らかに寝る事が出来るのだ。
また、敵への勝利の約束が与えられている。(7-8)
さらに、子供たちはおびただしく多くなって行く。それでいて、穀物倉から食料が尽きてしまう、という事も、一切無いのだ。(9-10)
そして、何よりの祝福は、主が共におられる事、主が私達のうちに住んで下さる事。それこそ、何にもまさる祝福である。(11-13)
14節以降は、主に聞き従わない場合に振りかかる呪いの明細である。
呪いを招いてしまうための条件が、以下の二節である。
『しかし、あなたがたがもしわたしに聞き従わず、またこのすべての戒めを守らず、わたしの定めを軽んじ、心にわたしのおきてを忌みきらって、わたしのすべての戒めを守らず、わたしの契約を破るならば』(レビ記26:14-15)
第一段階の呪いは、身も心も「病む」事である。
『わたしはあなたがたにこのようにするであろう。すなわち、あなたがたの上に恐怖を臨ませ、肺病と熱病をもって、あなたがたの目を見えなくし、命をやせ衰えさせるであろう。あなたがたが種をまいてもむだである。敵がそれを食べるであろう。わたしは顔をあなたがたにむけて攻め、あなたがたは敵の前に撃ちひしがれるであろう。またあなたがたの憎む者があなたがたを治めるであろう。あなたがたは追う者もないのに逃げるであろう。』(レビ記26:16-17)
ここの「肺病」は「憔悴」あるいは「消耗」とも訳せ、「熱病」は「激怒」「興奮」とも訳せる。
御声に聞き従わない者は、まず訳の分からない恐怖に襲われ、諸々の病を患う他、情緒が不安定になって、視力も見識も悪くなり、嫌な敵が栄えて支配するようになり、訳も分からない漠然とした恐怖感に支配され、追われてもないのに逃げるようになるのだ。
あわて者となり、物を落としてこわしたり、なくしやすくなる。
怒りっぽく成り、病がちになる。
いじめられやすくなり、常に何かから逃げる生活となる。
それが第一段階だが、それでも主に聞き従わないなら、さらに7倍罰が重くなってしまう。
「作物の不作」が来(レビ記26:18-20)、「野獣」が横行し(レビ記26:21-22)、戦争と疫病、食料不足の災いが降りかかる。(レビ記26:25-26)
この災いでも、なお懲りずに、主の御声に聞き従わないなら、食料不足は最悪の状態になり、自分の息子や娘の肉を食べるまでになる。(27-29節)
『しかし、彼らがもし、自分の罪と、先祖たちの罪、すなわち、わたしに反逆し、またわたしに逆らって歩んだことを告白するならば、たといわたしが彼らに逆らって歩み、彼らを敵の国に引いて行っても、もし彼らの無割礼の心が砕かれ、あまんじて罪の罰を受けるならば、そのときわたしはヤコブと結んだ契約を思い起し、またイサクと結んだ契約およびアブラハムと結んだ契約を思い起し、またその地を思い起すであろう。』(レビ記26:40-42)
人々はどうして、愚かにも、呪いへとまっしぐらに進む事を止めないか。それは「心に割礼が無いから」だと書いてある。
すなわち、心が「あれをやりたい」「これをやりたい」という肉の思いで覆い尽くされていて、それを取り除ける気が、一切無いからである。
その無割礼の心が砕かれ、取り除かれて、主が与えられた罰を正当とし、その罰を甘んじて受けようとする人達に、主は、彼らの先祖たち、アブラハム、イサク、ヤコブとの契約を思い起こす、と言っておられる。
受けている呪いや罰を乗り越えるには、自分に罪がある事を認め、それを正直に主に告白する必要があるのだ。
そして、その向こう側で、主は、恵みと憐れみをの手を広げて待っておられるのだ。
主はなぜ、この章に記されているほどの災いを用意されるか。
それは、愛しているからであり、死のパターンに陥らないようにと、懲らしめを与えられるからだ。
『「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:5-11)