メッセージ - その方向で大丈夫?(ヘブル6:4-12)
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韓国語通訳有 한국어예배
「一度光に照らされ、天からの賜物を味わい、聖霊にあずかるようになり、神のすばらしい言葉と来るべき世の力とを体験しながら、その後に”堕落(パラピプトー)”した者の場合には、再び悔い改めに立ち帰らせることはできません。」(ヘブル6:4-6新共同訳)
この箇所の「堕落」を狭義に捉え、救われた後にちょっとでも罪を犯してしまったら悔い改めの余地なく決して赦されない、と誤解する者もいるが、そういう意味では無く、むしろここは「歩む道の方向性」の問題を言っている。
日本語聖書の主要3訳はいずれも”パラピプトー”を「堕落する」と訳しているが、「パラピプトー」とは「脇にそれる」「脇に落ちる」「自ら教えを捨てる」というのが本来の意味である。
せっかく主の憐れみが示されて自分中心の道からイエス中心の道へと悔い改め(メタノイア:人生の方向転換)したのに、なお自分中心の道へと”脇にそれて”しまう者は、悔い改めを自らの意思で捨てているわけであるから、悔い改めの余地は無い、と、当然の事を言っているだけである。
人生の方向性を、再び自分中心にサタン中心へと敢えて向けてしまう者は、イエスを再び十字架にかけて辱める者である。
イエス様が十字架にかかり、血を流し、肉を引き裂かれたのは、私達が永遠の命を得るため、罪が赦されるためだ。
そこまで自らを捧げられたイエス様を、どうしてないがしろにする事が出来るだろう。
7節「地が自分の上にたびたび降って来る雨を吸い込み、自分を耕している人々のために有益な植物を産み出していれば、神からの祝福に与るが、茨やあざみをもたらし続けるなら、その地は無益なもので呪いに近づいており、その終りには焼かれてしまうことになる。」
ここで土地とは「自分」すなわち私達であり、土地を耕す者とは神である。
土地と実の主役は神であり、決して私達ではない。
土地の存在意義は、耕す者すなわち神に有益な実を実らせる事である。
主の恵みは良い者にも悪い者の上にも日々降り注いでいる。
もし私達が良い産物を実らせるのであれば、祝福をいただく事が出来るが、茨やアザミとのような、とげとげしい、苦々しいものばかり生み出すのであれば、呪いに向かって進んでおり、終わりには、永遠に焼かれてしまう。
耕される時は鍬が入れられ、痛いこともあるが、それによって良い実を豊かに実を結ばせるようになる。
私達は主のためにあらゆる良き実を結ばせる者でありたい。
9節「このように語ってはいても、愛する人々よ、私たちはあなたがたについて、もっとよいこと、救いに関わることがあると確信している。」
パウロはヘブル人にまず厳しい事を語った。それは「愛する人々」に滅んで欲しくないからであり、より良い者になって欲しいからである。
確かに神は、いつまでも愛を持って忍耐されている。しかし、敢えていのちの道から逸れてしまなら、その終わりは滅びである。
私達は主イエス様に向かって歩んでいるのであれば、ますます熱心に同じ道を歩んで行きたい。
もし世やサタンのほうに向きを変えつつあるのであれば、この恵みの時、猶予の時が与えられている今のうちに、イエス様に向きを変えなくてはならない。
ただイエスを見つめつつ歩んでいく皆さんでありますように。イエス様の名によって祝福します!