メッセージ - 御言葉ぬきの間違った熱心によって起きてしまった事件 - ペレツ・ウザ(1歴代誌13:1-14)
御言葉ぬきの間違った熱心によって起きてしまった事件 - ペレツ・ウザ(1歴代誌13:1-14)
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- 執筆 :
- pastor 2017-8-30 14:18
御言葉ぬきの間違った熱心によって起きてしまった事件 - ペレツ・ウザ(1歴代誌13:1-14)
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前章まではダビデに多くの勇士たち、軍人達がともどもダビデの元に集まって、イスラエルという国の建て上げに必要な人・モノが集まって来た事を見た。
神の国は、ダビデが主人公ではなく、主である。歴代誌にはもろもろの王達が登場するが、全て、主に御胸にかなった事を求めた王は栄え、御胸にではなく自分の好き勝手に行った王達は廃れて行った。
今回、ダビデ王がその王国のはじめに、御言葉にかなわない事を行って、主に戒められた記事が記されている。
13:1 ここにダビデは千人の長、百人の長などの諸将と相はかり、
13:2 そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。
13:3 また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。
13:4 会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。
ダビデの前のサウル王の時代、神の箱はおろそかにされ、神の箱は、長い間、放置状態だった。
この時からさかのぼる事数十年前、サムエルがまだ若かった時、イスラエルは主を軽んじた故に、神の箱がペリシテに奪われてしまう、という事件があった。(2サムエル記4章)
しかし箱は、どの人間の手も借りず、ペリシテの地で多くの災いをもたらし、御者のいない牛車によってひとりでにイスラエルへと戻されたが、その戻された所のイスラエルの人々は、箱の中を見てしまうという「不敬」の故に、大勢の人々が倒れた。(同5-6章)
それ以来、神の箱はずっとアビナダブの家に安置され、そのまま何十年かが経過していた。
それを顧みて、エルサレムへ携え上って来よう、というのは、ダビデの主に対する熱心ゆえにその事を為そうという、正しい動機からである。
しかし、いかに主に対する熱心を動機としていても、正しい方法に基づかないなら、災いしてしまう事がある。
13:5 そこでダビデはキリアテ・ヤリムから神の箱を運んでくるため、エジプトのシホルからハマテの入口までのイスラエルをことごとく呼び集めた。
13:6 そしてダビデとすべてのイスラエルはバアラすなわちユダのキリアテ・ヤリムに上り、ケルビムの上に座しておられる主の名をもって呼ばれている神の箱をそこからかき上ろうと、
13:7 神の箱を新しい車にのせて、アビナダブの家からひきだし、ウザとアヒヨがその車を御した。
13:8 ダビデおよびすべてのイスラエルは歌と琴と立琴と、手鼓と、シンバルと、ラッパをもって、力をきわめて神の前に踊った。
ダビデは、今までにないアイデアを駆使し、盛大に神の箱を運んだ。
新しい牛車に神の箱を載せ、アビナダブの子達にその車を御させ、何万もの選り抜きの兵士と共に、色々な楽器を用いた洗練された賛美とダンスをもって主をほめたたえつつ運んだのだ。
かなり大掛かりで華やかなイベントが進行していたが、その盛り上がりが頂点に達した時、バケツで水をかけられてしまうような、その全部を覆してしまうような事が起こって、イベントは中止に追い込まれてしまう。
13:9 彼らがキドンの打ち場に来た時、ウザは手を伸べて箱を押えた。牛がつまずいたからである。
13:10 ウザが手を箱につけたことによって、主は彼に向かって怒りを発し、彼を撃たれたので、彼はその所で神の前に死んだ。
13:11 主がウザを撃たれたので、ダビデは怒った。その所は今日までペレヅ・ウザと呼ばれている。
なんと、運んでいた牛が、神の箱をひっくり返そうとし、それをウザが手をもって支えようとして神の箱に触れた途端、打たれて死んでしまったのだ。
「いい事」をしたはずのウザが、主に撃たれ死んでしまう・・・なぜこのような事が起きるのだろう。
かつて、主の箱が、御者のいない牛車に載せられて、ひとりでにイスラエルへと戻るように仕向けて下さった主は、今回、牛がひっくり返さないようにする事など、当然出来たはずである。
それなのになぜ、主は、大勢の人達が集っているイベントの真っ最中、しかも、その熱狂が最高潮に盛り上がっている時に、この事をおこされたのか。
現代の私達は、ここから、重要な主の警告を読み取るべきである。。
なぜこの事が起きたのか。
御言葉を探ってみると、実は、ダビデ達の側に、過ちがいくつもあった事に気づく。
再び1節からじっくりおさらいしたい。
『ここにダビデは千人の長、百人の長などの諸将と相はかり、そしてダビデはイスラエルの全会衆に言った、「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば、われわれは、イスラエルの各地に残っているわれわれの兄弟ならびに、放牧地の付いている町々にいる祭司とレビびとに、使をつかわし、われわれの所に呼び集めましょう。また神の箱をわれわれの所に移しましょう。われわれはサウルの世にはこれをおろそかにしたからです」。』(1歴代誌13:1-3)
ダビデはここで「もし、このことをあなたがたがよしとし、われわれの神、主がこれを許されるならば」と言っている。
つまり、「あなたがた」千人隊長や百人隊長が「先」で、「われわれの神、主」が「後」になっている。
人が先で、主の御名が後。この志が、まず一つである。
『会衆は一同「そうしましょう」と言った。このことがすべての民の目に正しかったからである。そこでダビデはキリアテ・ヤリムから神の箱を運んでくるため、エジプトのシホルからハマテの入口までのイスラエルをことごとく呼び集めた。』(1歴代誌13:4-5)
この一大イベント企画は、社会的ステータスの高い軍人たちの賛同が得られ、多くの人達が動員された様子は記されている。
しかし、ダビデが主に伺ったとか、祭司やレビ人に相談を求めた、といった記述は見いだせない。もしも祭司やレビ人に相談していたら、絶対、牛車で運ぶような指示はしないはずである。(後述)
いかに多くの人達の賛同が得られても、また、何万人を動員するイベントが企画され実行されてしまっていても、主の御心を外して突き進んでしまうのは、危険だ。なぜなら、御言葉は「法則」であり、「これをすれば死ぬ」と言われている事をするならば、死んでしまうからだ。
彼らは、神の箱を運ぶ場合、どうするべきだったのだろうか。その場合の作法が、民数記4章に記されている。
『宿営の進むとき、アロンとその子たちとが、聖所と聖所のすべての器をおおうことを終ったならば、その後コハテの子たちは、それを運ぶために、はいってこなければならない。しかし、彼らは聖なる物に触れてはならない。触れると死ぬであろう。会見の幕屋のうちの、これらの物は、コハテの子たちが運ぶものである。』(民数記4:15)
つまり、神の箱は、大祭司の子孫によって梱包された上、レビ人のコハテ族が担ぎ棒で担いで運ぶものであり、この取り扱いを万一間違えるなら死人が出る恐れさえある事が記されている。
つまり、神の箱を、コハテ族以外の者に、それも牛車で運ばせるなど、とんでもない事だったのだ。
ダビデはこの度、主を第一とせず人間やイベント第一にするという間違いをし、祭司やレビ人など御言葉のエキスパートに聞かず、社会ステータスのある人々と合議し、その結果、御言葉ぬきの間違った熱心により、奉仕にアサインされてはならない奉仕者をアサインし、してはならない手段で主の契約の箱を運び、その結果、「ペレツ・ウザ」の事件が起きたのだ。
現代の私達も、よくよく注意すべきである。
イベント第一にしたり、御言葉のエキスパートより社会的ステータスのある人の意見を優先させたりして、御言葉を超えた事をもって、神の国の事業を進めようとするなら、主は何かしらの「ペレツ・ウザ」を起こされるだろう。
ダビデは、それを素直に受け止めて、省みた。
13:12 その日ダビデは神を恐れて言った、「どうして神の箱を、わたしの所へかいて行けようか」。
13:13 それでダビデはその箱を自分の所ダビデの町へは移さず、これを転じてガテびとオベデ・エドムの家に運ばせた。
13:14 神の箱は三か月の間、オベデ・エドムの家に、その家族とともにとどまった。主はオベデ・エドムの家族とそのすべての持ち物を祝福された。
ダビデは手段を間違えたが、しかし神の箱が急遽運び込まれたガテ人オベデ・エドムの家は、祝福を受けた。
つまり神の箱を運び入れる事は正しい事、祝福される事であると、主はサインを送られた。
ダビデの主を思う志は正しかったのだが、しかし、仕方が人間中心の、御言葉を侵犯したやり方だったのだ。
もしもダビデのこの度のイベントが、何の落ち度もなく進んで行っていたとしたら、どうだっただろう。
ダビデ達は確実に、御言葉に聞かない方向へと進んで行っただろう。
「なんとなく主に従っているつもり」と思い込みながら、実は御言葉を知らず、企画したイベントの成功や、人々の盛り上がりにばかり苦心して、突き進んで行く内に、御言葉が「してはならない」と警告している領域を侵犯するなら、滅びへと突き進んでしまうのだ。
これは、現代を生きる神の民である私達がよくよく留意すべき事である。
現代の私達が、クリスチャンイベント、礼拝イベント、伝道イベント、諸々の事を興すとするなら、それは主から出たもの・主を中心とするべきものである。
もし私達も、主が、そして御言葉が置き去りにされたまま、人の祭りに酔いしれるなら、何かしらの犠牲を伴う警告が与えられるものである。