メッセージ - 勝利に勝利を重ねるダビデ、とクリスチャン(1歴代誌18:1-17)
勝利に勝利を重ねるダビデ、とクリスチャン(1歴代誌18:1-17)
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18:1 この後ダビデはペリシテびとを撃ってこれを征服し、ペリシテびとの手からガテとその村々を取った。
18:2 彼はまたモアブを撃った。モアブびとはダビデのしもべとなって、みつぎを納めた。
ダビデは、それまでのイスラエルがかつて制圧する事の出来なかったあらゆる敵に対する勝利を主から与えられた。
その敵とはエドム、モアブ、アンモンの人々、ペリシテびと、アマクレなどの諸国、さらにはユーフラテス川沿いの王、ダマスコのアラムなど、多くの王達を打ち破った。
さらには、ダビデの知らなかった王達がダビデを恐れ、仕えるようになった。
それはダビデに戦闘力があったからではない。6節と13節に記されている通りである。
「主はダビデにすべてその行く所で勝利を与えられた。」
勝利は、主のものである。
箴言21:30 主に向かっては知恵も悟りも、計りごとも、なんの役にも立たない。
21:31 戦いの日のために馬を備える、しかし勝利は主による。
ダビデは、多くの分捕りをし、また、多くの貢物が納められたが、それらは全て、主に捧げた。(8節、1節)
ソロモンは集めた富を、自分のために豪勢に用いたが、ダビデは富を主に捧げた。
それで主はダビデに大いなる名を与えられたのだ。
ダビデは戦いにおいて勝利したのみならず、正しく統べ治めた事が14節以降に記されている。
彼は後に、正しい王の雛形として語り継がれた。「**は、ダビデの道を歩んだ」など。
そして、そのダビデの子孫から、真の王の中の王、キリストが現れるのである。
エレミヤ23:5 主は仰せられる、見よ、わたしがダビデのために一つの正しい枝を起す日がくる。彼は王となって世を治め、栄えて、公平と正義を世に行う。
23:6 その日ユダは救を得、イスラエルは安らかにおる。その名は『主はわれわれの正義』ととなえられる。
何故に神は、ダビデに、こんなにも栄誉を与えられたのか。
それは、ダビデが真心をもって主に使えたからである。
詩篇18篇は、主が彼の全ての敵の手から救い出された日に歌った詩であるが、その書き出しを見ると、いかにダビデが主をどのような心で見ていたかが書かれてある。
聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌、すなわち主がもろもろのあだの手とサウルの手から救い出された日にダビデはこの歌の言葉を主にむかって述べて言った
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。
ダビデはいつも、主を「わが」助けにしていた。
数多の戦いをして来たが、その戦いの都度、いつも主が助けであると宣言していたのである。
敬虔なクリスチャンが車を運転する前にいつも守りを祈るように。私達も、日常の仕事や家庭のわざ、諸々の「戦い」の都度、祈るなら、ダビデのように連戦連勝するのだ。
18:16 主は高い所からみ手を伸べて、わたしを捕え、大水からわたしを引きあげ、
18:17 わたしの強い敵と、わたしを憎む者とから/わたしを助け出されました。彼らはわたしにまさって強かったからです。
18:18 彼らはわたしの災の日にわたしを襲いました。しかし主はわたしのささえとなられました。
宮本武蔵はなぜ連戦連勝だったのかを聞かれた時、自分よりも弱い相手としか戦わなかったからだ、と言ったそうだが、ダビデはそうではなかった。彼は、自分よりも強い相手と戦って、連戦連勝だったのだ。
ゆえに、彼が勝つことができたのは、ダビデが強かったからではなく、主が彼のささえとなったからだ、と、ダビデは結論づけている。
18:19 主はわたしを広い所につれ出し、わたしを喜ばれるがゆえに、わたしを助けられました。
18:20 主はわたしの義にしたがってわたしに報い、わたしの手の清きにしたがって/わたしに報いかえされました。
18:21 わたしは主の道を守り、悪意をもって、わが神を離れたことがなかったのです、
18:22 そのすべてのおきてはわたしの前にあって、わたしはその定めを捨てたことがなかったのです。
18:23 わたしは主の前に欠けたところがなく、自分を守って罪を犯しませんでした。
18:24 このゆえに主はわたしの義にしたがい、その目の前にわたしの手の清きにしたがって/わたしに報いられました。
ダビデは、自分には義がある、手は清い、主の前にかけた所が無い、罪をおかさなかった、と言っているが、果たして主の厳しい基準に照らしても、全く罪を犯していなかったのだろうか。当然、そうではない。
彼は、主に喜ばれていた。(19節)
それは、彼が罪をおかさなかったからでなく、誠実に主に歩もうという志をもって、日々歩んでいたからである。
親が、子供がちょっとやそっとの罪や不完全さを持っていても、親を愛して親に誠実に歩もうとする子を喜ぶように、主は、主に誠実に歩もうとする私達をこそ喜んで下さる。
だから、示されていない罪について詮索する必要は無い。
特に良心のとがめが無いのに「自分はあの罪、この罪を犯していなかっただろうか」と詮索したり心配したりするのは、訴える者・悪魔から来るものであり、それによって、「自分はだめだ、罪人だ、神と共に歩むなど、おこがましい」と言って主から離れてしまうなら、サタンの企みが成功してしまった事になる。
18:29 まことに、わたしはあなたによって敵軍を打ち破り、わが神によって城壁をとび越えることができます。
18:30 この神こそ、その道は完全であり、主の言葉は真実です。主はすべて寄り頼む者の盾です。
18:31 主のほかに、だれが神でしょうか。われらの神のほかに、だれが岩でしょうか。
18:32 神はわたしに力を帯びさせ、わたしの道を安全にされました。
18:33 神はわたしの足をめじかの足のようにされ、わたしを高い所に安全に立たせ、
18:34 わたしの手を戦いに慣らされたので、わたしの腕は青銅の弓をもひくことができます。
まさしくダビデは、この詩篇の通り、あらゆる強者を破り、連戦連勝したのは、主に依り頼んでいたからだ。
ここを読むとそれが明らかであると分かる。
私達も、主を頼みとし、主を拠り所とするなら、私達の足も雌鹿のようにして高いところに安全に立たせ、青銅の弓をも引けるようにされるのだ。
18:43 あなたは民の争いからわたしを救い、わたしをもろもろの国民のかしらとされました。わたしの知らなかった民がわたしに仕えました。
18:44 彼らはわたしの事を聞くと、ただちにわたしに従い、異邦の人々はきて、わたしにへつらいました。
18:45 異邦の人々は打ちしおれて、その城から震えながら出てきました。
歴代誌にもある通り、ダビデを恐れた王達がダビデの前にひれ伏した。
クリスチャンは、清貧の中を生きる弱々しい人生ではないはずである。
世に、悪魔サタンに対し、勝利につぐ勝利をし、多くを分捕り、そしてダビデのように、それを主に捧げる。
それが、正しいクリスチャンの生き様である。
そして、次のダビデの賛美のように、主をあがめるのである。
18:46 主は生きておられます。わが岩はほむべきかな。わが救の神はあがむべきかな。
18:47 神はわたしにあだを報いさせ、もろもろの民をわたしのもとに従わせ、
18:48 わたしの敵からわたしを救い出されました。まことに、あなたはわたしに逆らって/起りたつ者の上にわたしをあげ、不法の人からわたしを救い出されました。
18:49 このゆえに主よ、わたしはもろもろの国民のなかであなたをたたえ、あなたのみ名をほめ歌います。
18:50 主はその王に大いなる勝利を与え、その油そそがれた者に、ダビデとその子孫とに、とこしえにいつくしみを加えられるでしょう。