メッセージ - 第二歴代誌概要(2歴代誌1:1)
第二歴代誌概要(2歴代誌1:1)
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歴代誌は、ヘブライ語聖書(タナク)では「ディブレー・ハッヤーミーム(「日々の出来事」の意味)」として、イスラエルの歴史が記されている。
その歴史の範囲は、全人類の祖先アダムから始まり、バビロン捕囚とその帰還で終わる。
ユダヤ教の聖書(タナク、私達が言う旧約聖書)は、トーラー(モーセ五書)、ネビイーム(預言者)、ケトゥビーム(諸書)に分かれており、歴代誌はケトゥビーム(諸書)の最後に位置する。すなわち、ユダヤ人の聖書では、一番最後の書である。
歴代誌は一見すると、系図や構図や寸法、役割分担や仕事のローテーションなど、何か、客観的なリストで埋め尽くされたように見えるが、この書へと込めたそのリストの性質から、この記者の意図を見る事が出来る。
その意図とは、自分達は神の民である事、礼拝する民すなわち神と関係を持ち、神の教えを守って祝福されて行くべき民である、という事を伝える事にある。
歴代誌のはじめは、アダム以来の系図が記されており、特にアブラハムの子孫を神は選んで増えて行った所に、神は特にイスラエル民族を選んで神の民とし、律法を導入し、その「神の基準」を人々に伝えるという、イスラエルのアイデンティティを示している。
第一歴代誌の終わりまでの所には、神殿がいかに荘厳に造られたかが記されており、神殿すなわち「礼拝こそがイスラエルのアイデンティティの中心」である事を強調している。
そして、第二歴代誌には、この神殿を、すなわち礼拝を軽んじた王がいかに呪われ、尊んだ王がいかに祝福されたか、その歴史が記されている。
世の歴史書は、誰かの王朝の栄枯盛衰の繰り返し、偶然的・宿命的な出来事の繰り返しにしか見えないが、聖書は、神中心の観点から見るなら、一定の法則を見出すことが出来る。
主は祭司エリに「わたしを尊ぶ者を、わたしは尊び、わたしを卑しめる者は、軽んぜられるであろう。」(1サムエル記2:30)と言ったが、第二歴代誌の歴代の王達はまさにこの基準に漏れる事は100%なく、神殿礼拝を、すなわち主を敬う王は100%栄え、主を軽んじる王は100%呪われている。
まさに、歴史に学べである。
第二歴代誌は、1章から9章まではソロモンの神殿建設事業が主に記されている。
そして10章から最後までは、ソロモンから続く南ユダ王国の歴代の王達の栄枯盛衰が記されており、その法則は、先に記した通り、主を敬う王は100%栄え、主を軽んじる王は100%呪われている。
1:1 ダビデの子ソロモンはその国に自分の地位を確立した。その神、主が共にいまして彼を非常に大いなる者にされた。
ソロモンというと世界史では偉大な知恵深い王として有名であるが、聖書には「その神、主が共にいまして彼を非常に大いなる者にされた。」と書いてある。
すなわち、歴史を支配する天の神がおられ、神が王を立て、王を偉大にし、あるいは王を廃するのだ。
歴史は神中心で見るなら、決して宿命的・偶発的な繰り返しではなく、絶対的な法則性が見えてくる。
天地を創られたまことの神を敬う人は、祝福され、軽んじる人は呪われる。
天地を創られたまことの神を敬う国は、祝福され、軽んじる国は呪われる。
結局、人は、神を敬うかどうか、礼拝によって神と関わりを持つかどうかによって、究極的に、神と関わる永遠の祝福を生きるか、それとも神との関わりを断って永遠に呪われるか、のどちらかなのだ。
それが歴代誌に流れる法則であり、聖書全体の法則、そして人類全体の法則であり、私達の法則なのだ。