メッセージ - 雪よりも白くなるために(イザヤ1:2-20)
雪よりも白くなるために(イザヤ1:2-20)
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1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
1:19 もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
1:20 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。
この有名な促しを、主がなされたそもそもの原因は、イスラエルの中の罪に、特に、イスラエルの「恩知らずさ」の指摘から、イザヤ書は始まった。
1:2 天よ、聞け、地よ、耳を傾けよ、主が次のように語られたから、「わたしは子を養い育てた、しかし彼らはわたしにそむいた。
1:3 牛はその飼主を知り、ろばはその主人のまぐさおけを知る。しかしイスラエルは知らず、わが民は悟らない」。
1:4 ああ、罪深い国びと、不義を負う民、悪をなす者のすえ、堕落せる子らよ。彼らは主を捨て、イスラエルの聖者をあなどり、これをうとんじ遠ざかった。
牛やろばさえも、主人への恩を知っている、というのに、神の民は、主への恩をすっかり忘れてしまって、主への感謝もなく、ただ、主から与えられた食物を食べるだけで、主を敬わない。
牛やろば以下になってしまった神の民に対し、主は4節で「ああ」と嘆いている。
1:11 主は言われる、「あなたがたがささげる多くの犠牲は、わたしになんの益があるか。わたしは雄羊の燔祭と、肥えた獣の脂肪とに飽いている。わたしは雄牛あるいは小羊、あるいは雄やぎの血を喜ばない。
1:12 あなたがたは、わたしにまみえようとして来るが、だれが、わたしの庭を踏み荒すことを求めたか。
1:13 あなたがたは、もはや、むなしい供え物を携えてきてはならない。薫香は、わたしの忌みきらうものだ。新月、安息日、また会衆を呼び集めること――わたしは不義と聖会とに耐えられない。
主を敬う心もなく恩を知らない者が礼拝に来るのは、単に礼拝の場を踏みにじっているにすぎない。
そこで、主の前に喜ばれるものになるために、言われた。
キリスト教といえば、赦しの宗教だと何となく知られている。
確かに、罪の赦しがキリスト教にはあるが、それは無条件のものではない。主の元に行く、という事が必要だ。
「主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。」まずは主と論じあう事から、罪の赦しが始まる。
その論じ合いとは、まず、自分の側に罪があるのを主の御前に認める事と、それを隠さず主に申し上げる事から始まる。
ダビデは罪を指摘された時、正しく告白した。
詩篇51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
51:10 神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください。
人は、罪を犯す。
けれども、もし犯したとしても、主の前に低くなる心を持ち、自分の罪を悲しんで、主に立ち返ろうとして「主と共に歩む」人こそ、主の民なのだ。