メッセージ - 盛大な奉献式と、主の側の応答(2歴代誌7:4-22)
盛大な奉献式と、主の側の応答(2歴代誌7:4-22)
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ソロモンによる奉献の祈りと民への祝福は終わり、主は天からの火をもってソロモンの祈りに答えられ、その後、盛大な奉献の祝いに入る。
7:4 そして王と民は皆主の前に犠牲をささげた。
7:5 ソロモン王のささげた犠牲は、牛二万二千頭、羊十二万頭であった。こうして王と民は皆神の宮をささげた。
・・・
7:7 ソロモンはまた主の宮の前にある庭の中を聖別し、その所で、燔祭と酬恩祭のあぶらをささげた。これはソロモンが造った青銅の祭壇が、その燔祭と素祭とあぶらとを載せるに足りなかったからである。
捧げられたいけにえは、牛二万二千頭、羊十二万頭という、ものすごい数である。
それだけのいけにえを捧げる事のできたソロモンの富んでいる様や、太っ腹さは目を見張るものがあるが、それだけの「いのち」が犠牲となった事に思いを馳せるべきである。
なぜ、「いのちの犠牲」が発生しなくてはならないのか。
それは、主は、人の罪の「つぐない」として、罪による死の「身代わり」として、血の値を要求されるからだ。
それによって、神との和解を成立させるためだ。
私達は、尊い犠牲となっていのちを捧げられた、神の小羊イエス・キリストを覚えるべきである。
この、捧げられたいのちについて、主に対する感謝と恐れ敬いが無い「いけにえ」は、ただ命を粗末にするだけの殺戮ショーにすぎない。
イエス様は、私達の罪を赦すため、私達の「死」を身代わりとして負うために、そして、私達と神との和解を成就させて下さるために、自ら犠牲となって十字架の上で捧げられた。
私達はこの主イエス・キリストをこそ愛し、彼と共に歩み続けるべきである。
7:10 七月二十三日に至ってソロモンは民をその天幕に帰らせた。皆主がダビデ、ソロモンおよびその民イスラエルに施された恵みのために喜び、かつ心に楽しんで去った。
犠牲のいのちが捧げられ、罪の赦しと神との和解を得られた結果、大きな喜びが湧き上がる。
この時、まことに喜びと祝福の絶頂の時期であるが、大事なのは多大ないけにえを捧げる事よりも、主に対する誠実をキープし続け、主と共に歩み続ける事だ。
『わたしは何をもって主のみ前に行き、高き神を拝すべきか。燔祭および当歳の子牛をもって/そのみ前に行くべきか。主は数千の雄羊、万流の油を喜ばれるだろうか。わがとがのためにわが長子をささぐべきか。わが魂の罪のためにわが身の子をささぐべきか」。
人よ、彼はさきによい事のなんであるかを/あなたに告げられた。主のあなたに求められることは、ただ公義をおこない、いつくしみを愛し、へりくだってあなたの神と共に歩むことではないか。』(ミカ6:6-8)
主は、祈りを聞かれた事を示すために火を天から降して答えられたが、さらに、夢を通しても答えられた。
7:12 時に主は夜ソロモンに現れて言われた、「わたしはあなたの祈を聞き、この所をわたしのために選んで、犠牲をささげる家とした。
7:13 わたしが天を閉じて雨をなくし、またはわたしがいなごに命じて地の物を食わせ、または疫病を民の中に送るとき、
7:14 わたしの名をもってとなえられるわたしの民が、もしへりくだり、祈って、わたしの顔を求め、その悪い道を離れるならば、わたしは天から聞いて、その罪をゆるし、その地をいやす。
主は、この神殿で祈る祈りに答える、という事よりも先に、「天を閉じて雨をなくし、またはわたしがいなごに命じて地の物を食わせ、または疫病を民の中に送る」、災いが起きた場合についてのほうを先に示された事は、注目に値する。
ききんや疫病は、人の側が主の御声に聞き従わない場合に送られる災いであるが、主は人の成り立ちをご存知である。この時点でこそ、人は神殿を奉献したばかりで喜び楽しんでいるが、人の心の冷めやすさを、ご存知だったのだ。
それで主は先に釘をさされたのである。
7:15 今この所にささげられる祈にわたしの目を開き、耳を傾ける。
7:16 今わたしはわたしの名をながくここにとどめるために、この宮を選び、かつ聖別した。わたしの目とわたしの心は常にここにある。
主の目がいつもこの神殿に注がれ、主の心がいつもそこに置かれている。それは何と素晴らしい事だろうか。
その神殿はイスラエルの栄誉であり、ソロモンとしても何より誇りに思える事であろうが、しかし、主の目がいつも注がれている、という事は、逆に迂闊な事はできないという事でもある。
監視カメラを前に盗みを働く事ができないように、本来、人は常に目を注がれておられる神を御前に罪を行うなどできないはずである。
しかし、神は見えないお方であるゆえに、目に見える物事に従って歩む人は、神の存在を忘れ、平然と罪を犯してしまいがちなのだ。
私達は、ひとり子イエス・キリストを犠牲として私達に与えられた、愛と憐れみ、赦しに満ちた全能の神の眼差しをこそ、意識するべきである。
続いて主は、祝福とのろいの宣言をしておられる。
7:17 あなたがもし父ダビデの歩んだようにわたしの前に歩み、わたしが命じたとおりにすべて行って、わたしの定めとおきてとを守るならば、
7:18 わたしはあなたの父ダビデに契約して『イスラエルを治める人はあなたに欠けることがない』と言ったとおりに、あなたの王の位を堅くする。
祝福の条件は、「歩み、行う、守る」の三つの動詞である。
主の前に歩む事、主の命じられた通りを行う事、主の定めとおきてを守る、という事をする限りでは、ソロモンの子孫はイスラエルを治める事が続く。
主は、神の民に祝福を与え、大いなる者とする事によって、異邦人に栄光を表されるのだ。
7:19 しかし、あなたがたがもし翻って、わたしがあなたがたの前に置いた定めと戒めとを捨て、行って他の神々に仕え、それを拝むならば、
7:20 わたしはあなたがたをわたしの与えた地から抜き去り、またわたしの名のために聖別したこの宮をわたしの前から投げ捨てて、もろもろの民のうちにことわざとし、笑い草とする。
ここにも、3つの事が出てくる。すなわち、主に「そむいて従わず」「戒めと定めとを守らず」「他の神々に行って、それに仕え、それを拝む」なら、主が御名を置かれたあの特別な神殿さえも、投げ捨ててしまう。
残念ながら、実際にその事が起きてしまい、ソロモン神殿はとうの昔に破壊されてしまった。
彼らが主に「そむいて従わず」「戒めと定めとを守らず」「他の神々に行って、それに仕え、それを拝む」からだ。
それは私達にしても、同様である。もし私達がそのように主に対して不誠実を続けるなら、私達もそうなってしまう。
7:21 またこの宮は高いけれども、ついには、そのかたわらを過ぎる者は皆驚いて、『何ゆえ主はこの地と、この宮とにこのようにされたのか』と言うであろう。
7:22 その時、人々は答えて『彼らはその先祖たちをエジプトの地から導き出した彼らの神、主を捨てて、他の神々につき従い、それを拝み、それに仕えたために、主はこのすべての災を彼らの上に下したのである』と言うであろう」。
主は、神の民イスラエルに祝福を与える事を通して、異邦人に栄光を表された。
しかし、もし、御声に聞き従わないという事であるなら、彼らに降される大きな災いを通しても、主は異邦人に栄光をあらわされる。
どちらにしても、ただ主の栄光はあらわれるのだが、主は、人が罪を犯して災いに遭う事を望んではおられない。むしろ祝福され、いのちを獲得する事を望んでおられる。
主は、真実なお方である。
私達は、肉に対して種を蒔くなら肉から滅びを刈り取るが、霊に蒔くならいのちを刈り取る事を、気をつけていなくてはならない。
『わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対する証人とする。わたしは命と死および祝福とのろいをあなたの前に置いた。あなたは命を選ばなければならない。そうすればあなたとあなたの子孫は生きながらえることができるであろう。すなわちあなたの神、主を愛して、その声を聞き、主につき従わなければならない。そうすればあなたは命を得、かつ長く命を保つことができ、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓われた地に住むことができるであろう」。』(申命記30:19-20)