メッセージ - 子供を御言葉なるお方に教育させていただく(イザヤ49:14-21)
子供を御言葉なるお方に教育させていただく(イザヤ49:14-21)
第一礼拝 Youtube動画 / 音声
賛美集会〜第二礼拝 Youtube動画
賛美集会音声
第二礼拝音声
週報/メッセージ(説教)概要
今週は、いよいよコーエンの学びの週である。主は今、東の地アジアにおいて、事を起こそうとしておられる。コーエンのキム博士がテフィリン(御言葉暗唱)運動を始め、現代、韓国や特に中国(シニム:12節=シナ)においてテフィリン教育を受ける子供達が莫大に広がっている。「海沿いの国々(島々)よ、わたしに聞け。遠いところのもろもろの民よ、耳を傾けよ。」という呼びかけで始まるイザヤ49章は、東の果てから主の民が集まって来るという、素晴らしい約束が記されている。主は「しもべ」を用い、イスラエルの残りの民を帰らせるのみならず、彼のしもべを光とし、救いを地の果てへ届けるために用いて下さるのだ。(6節)
しかし彼らは「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と言うが(14節)、それに対し主は、『見よ、わたしは、たなごころ(手のひら)にあなたを彫り刻んだ』(16節) と言って下さった。そう、主は十字架のあの時、私達を、イエス様の手の中へと、刻・ま・れ・たのだ。イエス様のほふられた傷は、永遠に残っている。(黙5:6)
「主はわたしを忘れている」と思う時、イエス様の十字架の釘跡へと永遠に刻まれた私達を、思うべきだ。
なぜ彼らは頑として「主はわたしを忘れた」と言うのか。それは、やられっぱなし・奪われっぱなしだったからだ。何故にそうなってしまったのか。それは自身の罪の故だ。主はずっと、方向を正して御言葉の導きに従いなさい、と言っておられたのに、正さず、あくまで頑なに我が道を進み、してはならない事をしてばかりいたので、彼らの子供達は奪われ、住んでいる家は廃墟と化し、敵に好き放題奪われっ放しだった。
けれども主は、彼らを慰められる。「あなたの目をあげて見まわせ。彼らは皆集まって、あなたのもとに来る。・・・あなたは彼らを皆、飾りとして身につけ、花嫁の帯のようにこれを結ぶ。」(18節)
花嫁の帯は、当時、決して忘れてはならない花嫁の必需品で(エレミヤ2:32)、尊い石で飾られていた。
主は、彼らの子達を集めて、花嫁の帯のように飾りとして身につけさせて下さる、と言うのだが、この子達は不思議である。彼らは言っている。『だれがわたしのためにこれらの者を産んだのか。わたしは子を失って、子をもたない。わたしは捕われ、かつ追いやられた。』(21節) 一体この子供達は、どういう子達だろう。
鍵となるのは、54章である。子を産まない不妊の女に主は「喜びなさい!あなたから出る子供達は、普通に生まれた子達よりもっと尊い、宝石のような輝いた子達だ」と言われる。 「苦しめられ、もてあそばれて、慰められなかった女よ。見よ。わたしはあなたの石をアンチモニーでおおい、サファイヤであなたの基を定め、あなたの塔をルビーにし、あなたの門を紅玉にし、あなたの境をすべて宝石にする。あなたの子どもたちはみな、主の教えを受け、あなたの子どもたちには、豊かな平安がある。」(イザヤ54:11-13)
ここで大事なのは「主の教えを受け」という言葉である。人を御言葉で養うなら、ちょうどパウロとテモテのような霊的な親子関係となり、たとえ実の子でなくても、尊い宝石のような子供の、産みの親となれるのだ。
聖書は逆転劇に満ちている。ハンナやエリザベツ、そして、多くの国々の母・王たちの母となったサラは、不妊の女だった。なぜ彼女達は、普通に子供ができなかったのか。それは彼女達に子供ができない期間、主に心を向けさせ、熱心に祈らせるためであり、その子を、主に捧げるようにするためである。
親が「自分が育てたから素晴らしい子になった」という願望を子に投影し過ぎてしまうと、子は息を切らしてしまいがちだが、この宝石のような子達は、なんと、育てた記憶が無い(49:21)。鍵は「主の教え」である。
御言葉暗唱(テフィリン)教育は、子の心と思いに刻まれた御言葉が、子を育てるのだ。それは、親流儀の「あれしちゃだめ、これしなさい」ではないので、親も疲れないし、子も疲れない。テフィリン教育で子供を育てるなら、一体いつの間にこんなに素晴らしい子に変わったのだろう、という感想を持つ経験者が多い。
女性はエデンで、神の言葉を乗り越えた罪の故、子を産む時の苦しみをペナルティとして受けた。でも、むしろ、産んだ後、子を世へと「送り出す」ための、子育てという苦しみのほうが大きいのではなかろうか。
人は、御言葉を越えてしまう価値観においては、子育ての苦しみは多く、神の子のような子は育たない。
しかし、主に明け渡した人が、御言葉にその子を委ね、御言葉がその子を育てるなら、子育ての苦しみは少なく、こんなに素晴らしく育った子は一体誰がいつ育てたのだろう、と、不思議がるようになるのだ。
この遠い東の果ての島々の国、シニムの地域において、主の教育を授け、自分が産んだのではなく「主の御言葉」が産んだ子供達が、所せましと多くされ、キラキラ輝く宝石でちりばめられた花嫁の帯のように飾られて行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!