メッセージ - 獄中の賛美(使徒16:25-34)
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韓国語通訳有 한국어예배
本日の箇所は、普通に読んで行けば「あれ?どうして?」と思える所が沢山ある。
まずパウロとシラスはその時、着物を剥がれ、鞭打たれ、ひどく傷を負い、獄屋の一番奥へ入れられ、足枷まではめられているというのに、賛美しつつ祈っているのだ。
その賛美と祈りを、他の囚人達は、真夜中なのに文句も言わず、聞き入っているのだ。
しかもなんと大地震が起きて、獄舎の全ての扉が開いたばかりでなく、鎖も全て解けてしまったという。
監視長は扉が開いているのを見て、自殺しようとするが、パウロは、「皆ここにいるのだから自害してはならない」と言う。
そう、牢の扉が開かれ足枷も全て解けてしまったというのに、囚人達は誰一人逃げなかったのだ。
そして、見張っている側の看守長が、見張られている側の二人にひれ伏し、真っ先に発する言葉が「主よ」「救われるにはどうしたらいいでしょうか」である。
普通に読めば「なんでそうなる?」の連続である。
あたかもこの二人には、神から特別に使わされた聖なる者達であるかのような刷り込みが、真夜中までに為されていたかのようである。
パウロとシラスは、牢屋にぶち込まれた時から真夜中になるまでに、囚人や看守長を問わず、福音を伝えていたのではなかろうか。
囚人達は福音を聞き、罪人であった自分を悔い改め、監視長も、牢の向こうから漂ってくる声から「主」「救われるには」という言葉を何となく聞いていたのだろう。
そうして賛美している内に、なんと地震が起き、扉も鎖も全て解けてしまったわけである。
囚人一同はこれら一連の事を見、この二人を前にして、とても逃げるどころではない、この二人はまことに神に守られ愛されている者達だ、と改めて驚いたのではなかろうか。
当時、牢獄を見張っている者は、見張られている者が逃げたなら、その者と同じ罰を受けなくてはならない事になっていた。
看守長は囚人を見張っているようで、実は、ローマの制度という「牢獄」の囚人だったわけである。
そういうわけで看守長は、囚人全員が逃げていたとしたらどんな恐ろしい罰が待っているだろうと悲観して自殺しようとしたのだが、しかしなんと誰も逃げておらず、パウロは大声で「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」と叫んだ。
牢内で話していたパウロ達の「福音」は決して絵空事ではなく、信じる者は確かに神に愛され、このような不思議を起こし、そればかりでなく牢に入れられている罪人をも造り変えるのだ、と、おののき平伏したのではなかろうか。
看守長はこの二人に「主よ」と呼びかけた。
もしかしたら二人を神の人、あるいは神そのものと思ったのかもしれないが、パウロはまことの主、イエスを紹介した。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」
この言葉は、私達が大いに適用すべき事である。
家族がああなればいいのに、こうすればいいのに、と、他人を何とかしようとするのではなく、この看守長のように、まず自分が主イエスを信じる事。その上で家族の所に行って、主イエスを紹介するのである。
看守長はまだ夜であったのに、二人を引き取って打ち傷を洗い、パウロ達は、看守長と家族を水のバプテスマによって罪を洗った。
そして共に食卓で交わり「神様を信じる者となった事を、家族全員で喜んだ。」(34節)
24節までの話だけであれば、パウロ達は何とついていない、運が無いと思えるのだけれど、この一晩だけで劇的な不思議と救いが起こり、人々の解放と喜びが沸き起こったのである。
私達に何か困難が起きる時、それは祝福が備えられているというしるしである。
困難があった時、がまんして無理やり賛美すれば、牢屋が開いて逃げられる、という短絡的なものではない。
主は、牢に繋がれている者、監視している者の双方を縛る肉体的・精神的・制度的な「牢獄」から開放するため、敢えて、私達もその牢獄へと導く事があるのだ。
主のなさる事には何一つ無駄は無く、いかなる事も最善へと導いてくださるお方として信頼する者なら、どのような暗闇の牢獄でも、賛美は止められないのである。
そして信頼して賛美する時、牢は開き、足枷は解けるが、それでも敢えてその中に留まり、縛られている者・縛る者双方を救いへと導くのだ。
私達もこの暗闇のご時勢において、日々、肉体的・精神的・制度的な「牢獄」に縛られている。
それら全ての中にあっても、信頼して賛美し、目を覚まして祈り続ける皆さんでありますように。
そうして皆さん自身の鎖を解いていただくだけでなく、その場で苦しんでいる縛られている者・縛る者の双方を救いへと導く皆さんでありますように。
イエスの名前によって祝福します!