メッセージ - 「上り」の歩みと「下り」の歩み(コロサイ3:1-4)
「上り」の歩みと「下り」の歩み(コロサイ3:1-4)
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3:1 このように、あなたがたはキリストと共によみがえらされたのだから、上にあるものを求めなさい。そこではキリストが神の右に座しておられるのである。
3:2 あなたがたは上にあるものを思うべきであって、地上のものに心を引かれてはならない。
3:3 あなたがたはすでに死んだものであって、あなたがたのいのちは、キリストと共に神のうちに隠されているのである。
3:4 わたしたちのいのちなるキリストが現れる時には、あなたがたも、キリストと共に栄光のうちに現れるであろう。
私達はキリストと共によみがえらされた。よみがえった、という事は、ひとたび既に死んだものである。
生まれながらの肉欲に溺れた生き方に対し、罪に対し、世に対して。
そして、私達のいのちの本質は、もうこの地上ではなく、天国に、キリストと共に神に隠されている。
電車に上り線と下り線があり、都に近づく方面を上り、遠ざかる方面を下りと言うが、私達は天の都へといつも向かう者であるべきだ。
キリストに召し出されて御言葉を聞いた者が全員約束の地に入れるという訳ではないからだ。
地上の歩みは、ちょうど出エジプトした民が荒野を通って約束の地カナンを目指すようなもので、約束を見上げつつ約束の地へ入る事ができる者もおれば、過去を思いエジプトを懐かしみ、結局荒野で屍をさらす者もいる。
多くの民が荒野で滅んだのは、今の時代を生きる私達への警告である事は、ヘブル人への手紙3-4章を見れば明らかである。
ヘブル3:12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
3:15 それについて、こう言われている、/「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
3:16 すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。
3:17 また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。
3:18 また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。
3:19 こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
4:3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。それは、/「わたしが怒って、/彼らをわたしの安息に、はいらせることはしないと、/誓ったように」/と言われているとおりである。しかも、みわざは世の初めに、でき上がっていた。
イサクはひと度、ゲラルという世に「下って(ヤラド)」しまった。パンがなくなったためだ。
「下」は世であり、そこは一見食料に満ち、美しく栄えているように見えても、破滅への誘惑に満ちており、降った人は、家族や財産を、あるいは命を失い、散々な目で帰って来た例が、聖書に多数ある。
世に下ると、世の流儀の生き方をしなくてはらなくなり、嘘や罪を増し加えなくてはならない。
イサクは最終的に、ベエル・シェバへ「上った」。
「上る」はヘブライ語で「アラー」、上に向かう、あるいは「捧げる」事の意味があり、これが派生して「全焼のいけにえ(オラー)」となる。
創世記22:2 神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭(オラー)としてささげ(アラー)なさい」
私達は上にあるものを求める歩み、すなわち、「神に捧げられた歩み」をすべきである。
それをして行くなら、決して荒野に骨を埋める事がなく、約束の地に入ってそこで産んで増えて行く事が出来る。
ローマ12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
しかしもし下るなら、エリメレク一家のように、あるいはエルサレムからエリコへ下った人のように(ルカ10:30)、散々な目に遭って何もかも奪われ、あるいは死んでしまう。
出エジプトした民の大部分は、約束の地を見上げる歩みではなく、かつてのエジプトをなつかしむ歩み(下の歩み)をし、約束の地に入れず、荒野で骨を埋めてしまった。
だから、言われている。
ヘブル3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
3:15 それについて、こう言われている、/「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。