メッセージ - 極上のものを主から備えていただくために(ヨハネ2:1-11)
極上のものを主から備えていただくために(ヨハネ2:1-11)
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週報/メッセージ(説教)概要
ヨハネによる福音書は、当教会では1日1節づつ反復宣言し暗唱 (テフィリン)している箇所であるが、御言葉は1節をじっくり掘れば掘る程、次々と宝が掘り起こされる。今日また新たに掘り出された宝を見たい。
イエス様が最初に奇跡を行われたのはガリラヤ・カナの結婚式においてだった。人は日常生活の色々なイベントで諸々の準備をするが、この度、結婚式という重要なイベントにおいて、非常に重要なミスが発覚する。ぶどう酒が尽きてしまったのだ。イエス様の母は「ぶどう酒がありません」と言ったが、イエス様は言う。
『婦人よ、あなたは、わたしと、なんの係わりがありますか。わたしの時は、まだきていません。』(4節)
母に向かって「婦人よ」「何の係わりがありますか」と、ずいぶん不思議な言い方をしたものだが、なぜこの言い方をしたのだろう。母マリヤとしては、イエス様を親子関係の「子」として見、何かの手伝いをイエス様にさせたいと思ったのであろうが、イエス様はこう言う事によって、彼我の立場表明をしているのだ。
婦人よ、もしあなたが、メシヤであるわたしに何か必要を満たして欲しいなら、親子としてでなく、わたしを「主」という立ち位置に置き、あなたは主従関係における「しもべ」の立場に立たなくてはならないですよ、と。
多くの人々が「神」という存在を、勘違いしている。神を敬っているかのように見えて、実は、困った時だけ助けてくれる便利な「僕」のような位置に神を置いている。そういう人は困った事から救われたとたん、神を忘れてしまう。「敬い」が無いからだ。主を敬う人は、困っていない時でも、いつでも主を礼拝し敬うものだ。
『母は僕たちに言った、「このかたが、あなたがたに言いつけることは、なんでもして下さい」。』(5節)
彼女は、母という立ち位置を降り、イエス様を「上」とし、指示をするお方という正当な立ち位置に戻った。
『そこには、ユダヤ人の”きよめのならわし(カサリスモス)”に従って、それぞれ四、五斗もはいる石の水がめが、六つ置いてあった。』(6節) このカサリスモスは、ユダヤにおける清め礼であり、もし律法上で「汚れた」状態になってしまったら、夕方までに水を浴びて、主の御前に自分をきよくするための器である。
イエス様が満たされるのは、人が飲み干したワインボトルなどではない。人が欲望を飲み食いして空っぽになった汚らわしい器をイエス様は満たさない。金銭欲を満たそうとしてイエス様を利用しに来た者には、「人よ、だれがわたしをあなたがたの裁判人または分配人に立てたのか」と言われた。(ルカ12:14)
主が私達の必要を満たすための奇跡を起こして下さるための土台作りは、私達は主従関係の「従」となる事であり、自らを「きよめる」事である。清められていない金銭感覚の人の財布に、新しい金銭を増し加える奇跡は、主は、絶対にしない。その人は新しく増し加わったお金で、さらに罪を増し加えるだけだからだ。
だから言われている、『だれも、新しいぶどう酒を古い皮袋に入れはしない。もしそんなことをしたら、その皮袋は張り裂け、酒は流れ出るし、皮袋もむだになる。だから、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。そうすれば両方とも長もちがするであろう」。』(マタイ9:17)。 私達が新しい皮袋になる必要がある。
そのためにはまず私達が自分をきよめるための水を、全部使い果たす必要がある。すなわち、悔い改めて、「改まった行い」を、私達の側が「し尽くした時」、主は「やっと満たせる」と安堵し、満たして下さるのだ。
『そこで彼らに言われた、「さあ、くんで、料理がしらのところに持って行きなさい」。すると、彼らは持って行った。』(8節) 主が「今しなさい」と声をかけて下さる時がある。今、舟の右に網を降ろしなさい、今、鬨の声を上げなさい、と。その「今」という御声に聞き従う時、主の奇跡が起きる。料理がしらは、良いぶどう酒に変わった水を味わうと、言った。『どんな人でも、初めによいぶどう酒を出して、酔いがまわったころにわるいのを出すものだ。それだのに、あなたはよいぶどう酒を今までとっておかれました。』(10節)
この料理頭、すなわち、宴会の世話役は、世の中の宴会ごとについては経験も知識も豊富な人だ。
そんな彼が、このぶどう酒は良いぶどう酒だと認定した。きよめを実行した人に対して主が満たされるのは、世の事に熟知した人さえ、極上のものだと認めるものである! 世で経験豊富な人は、よりオトクな方法を熟知しており、時には”せこい”、”ちまちました”方法もアドバイスして来るが、自らを清めたしもべに主が与えて下さるのは、せこい、ちまちましたものではなく、上等な、混ざり気の無い、極上の喜びである!
イエス様の言葉には、条件があった。縁まで満たしなさい、と。だから主の僕がしなくてはならない事は、祝福の器が、縁まで満たされるまで、ずっと水くみをし続ける事である。祈りの水くみ、従順の水くみを。そうして上等の喜び・上等の祝福に与かる皆さんでありますように!イエス様のお名前によって祝福します!