メッセージ - キリストの十字架と復活に私達が参加する方法(ローマ6:5-11)
キリストの十字架と復活に私達が参加する方法(ローマ6:5-11)
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週報/メッセージ(説教)概要
本日は復活祭、イエス様がよみがえられた事を記念する日である。人は思う。イエスというお方が2000年前に十字架上で死んで復活した事が、現代の自分とどんな関係があるのだろうか、また、イエス様の死と復活は今の私達に何の関係があるのか、と。本日、よみがえりの主と私達との関係を、論理的に学びたい。
私達がやがて死ぬ事、それは誰も否定しようがない。それは、はじめの人アダムの御言葉への不従順により、罪と死の呪いが私達を含む全被造物に導入されてしまったからだ。私達は思う、それは不条理だと。
私達はアダムの時代、生まれていなかったし、アダムの罪に参加した記憶は無い。しかしヘブル7章で、メルキゼデク(イエスキリスト)はレビ系の祭司よりも優れた祭司であると説明しているのだが、その理由は、アブラハムがメルキゼデクに十分の一の捧げものを捧げた時、アブラハムの「腰にいた」レビもまたその時同時に捧げた、と書いてある。そうであるからには、私達も含め、全人類はアダムの「腰にいた」時、アダムと一緒に罪を犯したのだ。私達は必ず死ぬ以上、私達全てには、神に逆らう罪があり、処罰を受ける対象者である事には変わりない。「罪の支払う報酬は死である」(ローマ6:23a)と書いてある通りである。
実に不条理である。私達は生まれながらの状態では、自身の過ちと罪の中で死んでおり、この世を支配するサタンの支配下で、過ちと罪を犯しながら人生を歩む、生まれながらの御怒りを受けるべき者で、罪の債務証書が、私達を責め立てているのだ。しかし主は、そんな不条理の中でもがき苦しむ私達のために、罪が無いのに身代わりに罪の処罰を受けるという、究極の不条理によって私達を救って下さったのだ。
イエス様は十字架の時、私達を訴える罪という「債務証書」を、流された血によって帳消しにし(コロサイ2:14)、決して届かなかった「永遠の命」を、ご自分のいのちという代金で、支払い済みにして下さった。
これは既に行われた真理であるが、この「救い」は、人類の誰も彼もが自動的に適用されるものではない。「信仰」により、イエス・キリストを「私の主」とする人にのみ、それが適用されるのだ。そのわけは、こうである。
パウロはガラテヤ2章で「わたしはキリストと共に十字架につけられた」と言っているが、果たしてパウロは、イエス様の十字架の場面に一緒につけられただろうか?いない。私達はどうか。その時代、私達はそもそも生まれていない。ではどうしてキリストの十字架と関係する事ができるのか。それは、信仰によってである。
「信仰(behid)」とは「連合(be)し」「バンドする(hid)」事が元来の意味であり、私達・人間の側が、神様に対し、そして御言葉に対して為すべき分である。また、信仰をあらわすヘブライ語「エムナー」は「上昇する」という概念があり、エムナーの動詞「アーメン」には「サポートする、確認する、忠実である」の意味もある。
すなわち、信仰とは「組する事」「参加する事」とも言える。つまりパウロは、イエス様を信じた時、信仰によってイエス様の十字架に組し、参加したのであり、それは私達イエス様を信じる人も全員、一緒なのだ!
「私達の内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、私達がもはや、罪の奴隷となる事がないためである。」(ローマ6:6) パウロは言っている。私達がアダムの腰にいた時、アダムと共に罪に「参加」し、罪に支配され死ぬようになった「古き人」は、キリストの十字架に、信仰によって「参加」する事により、キリストと共に十字架につけられた、と。パウロは、古い自分を十字架に釘付けた、と言っている。私達も、同じ事ができるのである!信仰により、キリストの十字架に参加する事によって!
以上は、キム・ヒョンジョン博士が論文に書いた「参加神学(コイノニアセオロジー)」に基づく内容である。
私達は時間に縛られ、過去に犯してしまった事は、どうする事もできない。過去は変えられないが、しかし信仰は時間を超越し、アダムの時代という”大過去”に犯してしまった罪について、イエス様が十字架でして下さった事に、信仰によって参加する事によって、帳消しにする事が可能なのである。『もし私達が、彼に結びついてその死の様に等しくなるなら、さらに、彼の復活の様にも等しくなるであろう。』(ローマ6:5)
神は時間を超越しておられるお方であるが、私達が唯一、時間をどうにか出来るのは、「信仰」のみである。
だから赦しは、イエス様が十字架にかかった時、そこに自分も参加した、と、告白した人だけのものである。
だから告白は大事であり、キリストの御業に「参加する」事が、とても大事である。信仰には、行いという実体が伴っているべきであり、口先だけで行いが無いのでは、参加したとは言えない。今日、十字架の御元において、行いという実体と共にキリストの十字架に参加し、その復活に参加する皆さんでありますように!