メッセージ - 復活の主が現れた最初の主日礼拝(ヨハネ20:1-23)
復活の主が現れた最初の主日礼拝(ヨハネ20:1-23)
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20:1 さて、一週の初めの日に、朝早くまだ暗いうちに、マグダラのマリヤが墓に行くと、墓から石がとりのけてあるのを見た。
週の初めの日、それは日曜日である。
ユダヤ人にとっては、働いていはならない「安息日」が明けた「朝早くまだ暗いうち」であるので、マグダラのマリヤは誰よりも初めに、一番に、イエス様のために動き出した。
しかしそれは、復活の主に真っ先に会うためではなく、真っ先に、イエス様の遺体に防腐措置を施すためであった。
20:2 そこで走って、シモン・ペテロとイエスが愛しておられた、もうひとりの弟子のところへ行って、彼らに言った、「だれかが、主を墓から取り去りました。どこへ置いたのか、わかりません」。
20:3 そこでペテロともうひとりの弟子は出かけて、墓へむかって行った。
20:4 ふたりは一緒に走り出したが、そのもうひとりの弟子の方が、ペテロよりも早く走って先に墓に着き、
20:5 そして身をかがめてみると、亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、中へははいらなかった。
20:6 シモン・ペテロも続いてきて、墓の中にはいった。彼は亜麻布がそこに置いてあるのを見たが、
20:7 イエスの頭に巻いてあった布は亜麻布のそばにはなくて、はなれた別の場所にくるめてあった。
20:8 すると、先に墓に着いたもうひとりの弟子もはいってきて、これを見て信じた。
20:9 しかし、彼らは死人のうちからイエスがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった。
イエス様の遺体はあいにく、墓には無い。
イエス様があらかじめ言っておられたように、三日目によみがえったからである。
しかし彼女も、弟子達も、この時その事を信じられなかったし、イエス様があらかじめ言っておられた事を思い出しもしなかった。
20:10 それから、ふたりの弟子たちは自分の家に帰って行った。
20:11 しかし、マリヤは墓の外に立って泣いていた。そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、
弟子達はユダヤ人を恐れていたので、すぐに帰って行ったが、マリヤは相変わらず残っていた。
このように、真っ先に(たとえ遺体であろうと)イエス様に会いに行こうとし、またいかに間違えた概念でイエス様を見ていたとしても、それでもイエス様を真っ先に求める魂に、イエス様は現れてくださる。
20:12 白い衣を着たふたりの御使が、イエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっているのを見た。
20:13 すると、彼らはマリヤに、「女よ、なぜ泣いているのか」と言った。マリヤは彼らに言った、「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」。
20:14 そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、それがイエスであることに気がつかなかった。
彼女は、さっき弟子達が出てきたばかりの、密室であったはずの墓に、突然、白い衣を着た二人の御使が現れるという「非日常」を、全く驚かなかった。
それ程、彼女の心は、悲しみに塞がれていたのであろう。
バラムは、ろばが人間の言葉をしゃべるという「非日常」に全く驚かず普通にろばと会話したが、彼の場合は、金銭欲に眼と心が塞がれていたからだった。
このように、心がある思いで塞がれてしまうと、主が語られた言葉を理解できず、主の現れに気づかず、また、目の前に不思議が起きても全然心が動かされないものだ。
しかし主は、そんな、主を慕い求める「とんちんかん」な魂に、やさしくご自身を示して下さる。
20:15 イエスは女に言われた、「女よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか」。マリヤは、その人が園の番人だと思って言った、「もしあなたが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わたしがそのかたを引き取ります」。
20:16 イエスは彼女に「マリヤよ」と言われた。マリヤはふり返って、イエスにむかってヘブル語で「ラボニ」と言った。それは、先生という意味である。
彼女は、やっとイエス様だと気付いた。そして「ラボニ」(わたしの先生)と言った。
主は、慕い求める魂に、個人的に現れて下さる。公に、一斉に、ではなく、本当に主を慕い求める人に、あるいは慕い求める集団が集まっている所に。
そして彼らは主と出会い、主に対して「わたしの主」「わたしの神」「わたしの先生」と、わたしのものとして主を呼ぶようになるのだ。
20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
主は、閉ざしている彼らに現れた。
復活のイエス様は、全て、主を慕っている人の中に入って来て「安かれ(エイレーネー:平和, 和合, 安全, 健康, ヘブル語のシャロームに相当)」と言われる。たとえその人が弱く、脅え、出入りを固く閉ざしていても。
シャロームという言葉はユダヤ人の挨拶言葉で、広範な意味があり、祝福の総称とも言える。
シャロームは、平安の意味の挨拶言葉であると、よく知られているが、平和である事、安息である事を願う言葉であり、経済や子宝の繁栄、健やかである事、その他、全ての面で満ち足り、充足し、満足し、知恵に満たされ、あらゆる悪や、災いから救われ、敵や悪に対し勝利する事を、願い求める言葉でもある。
20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。
これが、最初の「主日礼拝」である。これ以降、主は、主日(日曜日)に現れ、弟子達も主日を主と出会う日として集うようになっていった。
主日、御言葉なるイエス様が信じる者の口から発せられると、聞く一人ひとりに主は現れ、聖霊の息吹によって息吹かれ、主に遣わされた者として世に出て行き、さらにキリストのいのちを増やして行く者となって行くのである。