メッセージ - ヨブ記概要(ヨブ記1:1)
ヨブ記概要(ヨブ記1:1)
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今回より、ヨブ記の講解説教に入る。
ヨブ記はユダヤ的な分類では「諸書(ケトゥビーム)」、異邦人的な分類では「詩歌・文学」に当たる。
だから、前回までは「歴史書」に分類される書で、言ってみれば、前回と今回では、社会の歴史から国語の文学へと教科替えしたようなものである。
ヨブ記はその名の通り、ヨブという名の人が主人公の書物であるが、彼の人となりについては、この書の最初に記されている通りである。
ヨブ記1:1 ウヅの地にヨブという名の人があった。そのひととなりは全く、かつ正しく、神を恐れ、悪に遠ざかった。
彼はそれ故、神に愛され、守られ、当代一の祝福を受けたが、彼の心には一抹の不安があった。この祝福がいつか取り上げられはしまいか、と。
しかしその不安は、現実のものとなってしまう。
サタンはヨブを訴えた。彼から主の囲いを取り除いたなら彼は本性を現す、と。
神はそれに許可を与え、ヨブは一日にして全財産を失ってしまうのみならず、さらにひどい皮膚病に冒されてしまう。
それでも彼は口で罪を犯す事をしなかった。(1-2章)
しかし、ヨブの3人の友人が来訪した時から、このヨブ記の雰囲気が変わる。
2:11 そのうちに、ヨブの三人の友は、ヨブに降りかかったこのすべてのわざわいのことを聞き、それぞれ自分の所からたずねて来た。すなわち、テマン人エリファズ、シュアハ人ビルダデ、ナアマ人ツォファルである。彼らはヨブに悔やみを言って慰めようと互いに打ち合わせて来た。
彼らは慰めに来たはずなのに、ヨブが徹底的な災いに遭っている様を見て、彼が何か罪を犯したからに違いないと思い、それを諭す言葉をかけた事を発端に、ヨブとこの3人の友人の論争となる(3-26章)。
テマン人エリファズが物申し、ヨブが犯した罪を悔い改めるべき事を説くのだが、しかしヨブには身に覚えがない。ただ一方的に災いが起こった事を申し述べるだけである。
それに対し、シュアハ人ビルダデが似たような事を物申し、ヨブがそれに答え、さらにナアマ人ツォファルが物申し、それにヨブが答えていく、という一巡を、合計3セット繰り返す。
1セット目はまだ静かな対話であるのだが、2セット、3セットと重ねるごとに表現が厳しくなり、険悪化し、論争が激化して行く。
そしてヨブ自身、身の潔白をあくまで主張し(27章)、現状を嘆き、神に対しても、自分の身は潔白だと主張するに至る。(28-31章)
最初は口では罪を侵さなかった義人ヨブでさえ、友人達から、自覚なき罪の指摘ばかりをされ続けていると、ついには怒りの内に、神に対してさえ挑戦状を叩きつけるに至ってしまう。
まことに人間由来の知識論争は、いかに高等・高尚でも、義人さえもこのように籠絡させてしまう。
3人の友人は黙ってしまうのだが、そこに、3人の論争をそれまで黙って聞いていた若者・エリフが口を開く。
32:6 ブズびとバラケルの子エリフは答えて言った、/「わたしは年若く、あなたがたは年老いている。それゆえ、わたしははばかって、/わたしの意見を述べることをあえてしなかった。
32:7 わたしは思った、『日を重ねた者が語るべきだ、/年を積んだ者が知恵を教えるべきだ』と。
32:8 しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。
32:9 老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。
32:10 ゆえにわたしは言う、『わたしに聞け、/わたしもまたわが意見を述べよう』。
エリフは、ヨブも友人達も議論の中身に問題があり、神こそただ正しいお方であり、自分を正しいとする事がそもそも違う事を主張する。
エリフの論述が32章から37章まで続くが、ついに、主ご自身が、あらしの中からヨブに語りかける。
38:2 「無知の言葉をもって、/神の計りごとを暗くするこの者はだれか。
38:3 あなたは腰に帯して、男らしくせよ。わたしはあなたに尋ねる、わたしに答えよ。
ヨブ達はそれまで、多くの無知の言葉をもって、真理を暗くしてきた。
主は、ヨブの質問には何一つ答えない。真理を暗くする議論論争に答える必要は、一切ないのだ。
主は、ただ主こそが全能であり、全てを創られ、全てを支配・管理しておられる事を、圧倒的な顕現をもって彼に示す。(38-41章)
それでヨブはただ悔い改め、ちりと灰の中に伏した。
主は確かにヨブから取り上げられた。しかし、ヨブが悔い改め、友人達のために祈った時、主はヨブを元通りにし、彼の持ち物を以前の2倍にして下さった。(42章)
さらに友人たちも彼を慰め、主は彼を幸いにして下さった。
ヨブ42:12 主はヨブの終りを初めよりも多く恵まれた。
42:16 この後、ヨブは百四十年生きながらえて、その子とその孫と四代までを見た。
42:17 ヨブは年老い、日満ちて死んだ。
ヨブ記については、「正しい人に悪い事が起きる、すなわち何も悪い事をしていないのに苦しまねばならない、という『義人の苦難』というテーマを扱った文献として知られている。」(wikipedia)
しかしその見解は、神様が彼に苦難を下さった、という点で止まってしまっており、ヨブの後半人生がどんなに祝福されたかが薄れてしまっている。
聖書がヨブ記について結論づけている箇所は、ヤコブ書である。
ヤコブ5:7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
5:8 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。
5:9 兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。
5:10 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。
5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。
ヤコブ書に書いてある通り、ヨブ記の主題は、忍耐して主を待ち望む者の幸いであり、主の慈愛とあわれみの素晴らしさである。
「主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるか。」
そこに着眼しつつヨブ記を読む時、神様は気まぐれにに災いを起こされるお方ではなく、あわれみをもって最善へと導いて下さるお方である事が、そして、主がいかに全能なる力と、深淵なるご計画で、私達を愛・あわれみのうちに導いて下さるかが見えてくる。
人間が主人となる事の愚かさと、それに引き換え、慈愛とあわれみに富んだ主を主とする事の素晴らしさを、ヨブ記から学んで行きたい。