メッセージ - 楽しみながら「忍耐」し、主からの栄光を受けるために(ヤコブ5:7-20)
楽しみながら「忍耐」し、主からの栄光を受けるために(ヤコブ5:7-20)
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5:7 だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。
5:8 あなたがたも、主の来臨が近づいているから、耐え忍びなさい。心を強くしていなさい。
このヤコブ書5章には旧約の偉人、ヨブとエリヤが出てくる。
いずれも、忍耐を通して偉大な業績を残した人達だ。
耐え忍ぶ事はとても有用な事だが、それは単なる我慢大会ではない。
聖書的な「忍耐」は、未来を現代へと引っ張る力がある。
信仰者が登っていくべき、信仰の成長の「階段」が、ローマ5章に記されている。
ローマ5:1 このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている。
5:2 わたしたちは、さらに彼により、いま立っているこの恵みに信仰によって導き入れられ、そして、神の栄光にあずかる希望をもって喜んでいる。
イエス様を信じて義とされた私達には、まず、神との間の平和を得る事が出来る。
そして、その恵みへと信仰によって導き入れられ、さらに、神の栄光にあずかる希望を持つ事が出来るのだ。
ローマ5:3 それだけではなく、患難をも喜んでいる。なぜなら、患難は忍耐を生み出し、
5:4 忍耐は錬達を生み出し、錬達は希望を生み出すことを、知っているからである。
義とされた者は神との平和を得、平和を得た者は患難さえ喜ぶ。
「患難(スリフィス)」は、オリーブの実が圧搾機の中で絞られ、有用な油が絞り出されるような意味があり、患難によって、私達の中にある尊い信仰が絞り出され、それが主に喜ばれ有用に用いられるために、まず圧搾されるのである。それを思うなら、患難を喜びに変換できる。
「忍耐」はギリシア語でフィポモネン、下に平伏す、という意味がある。それは、農夫が種を蒔いて、下に平伏しつつも、あたかも、喜びの刈り取りを目の前現実で刈り取っているかのような喜びをもって、喜ぶものだ。
私達はそのようにして忍耐しているだろうか。信仰者の忍耐とは、単なる我慢大会ではなく、未来の喜びを目の前に引っ張ってきて喜ぶ力があるのだ。
そしてそれが錬達(ドキメーン)を生み出す。それは研磨する、あるいは溶鉱炉で不純物を除いて純化して行く意味がある。
私達はどんどん純化されて行き、そしてやがて、決して奪われる事の無い希望を生み出すのである。
ローマ5:5 そして、希望は失望に終ることはない。なぜなら、わたしたちに賜わっている聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからである。
ヤコブ5:9 兄弟たちよ。互に不平を言い合ってはならない。さばきを受けるかも知れないから。見よ、さばき主が、すでに戸口に立っておられる。
5:10 兄弟たちよ。苦しみを耐え忍ぶことについては、主の御名によって語った預言者たちを模範にするがよい。
5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。
主は近い。だからむしろ私達も、聖書に記されている人々にならい、今している忍耐には大きな希望と喜びが必ず待っている事を当然のごとくに、信仰をもって自分のものとしていく事こそ、むしろラクで楽しい道なのだ。
5:12 さて、わたしの兄弟たちよ。何はともあれ、誓いをしてはならない。天をさしても、地をさしても、あるいは、そのほかのどんな誓いによっても、いっさい誓ってはならない。むしろ、「しかり」を「しかり」とし、「否」を「否」としなさい。そうしないと、あなたがたは、さばきを受けることになる。
将来をのぞむ事は有用だが、同時に、取らぬ狸の皮算用に陥らないよう、気をつけなさい、という事だ。
私達は将来起きる事が分からない。だから御旨から外れた先走った皮算用をして、誓いを破ったというそしりを受けないよう、ただ、はいははい、いいえはいいえだけ言えば良いのだ。
5:13 あなたがたの中に、苦しんでいる者があるか。その人は、祈るがよい。喜んでいる者があるか。その人は、さんびするがよい。
5:14 あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈ってもらうがよい。
5:15 信仰による祈は、病んでいる人を救い、そして、主はその人を立ちあがらせて下さる。かつ、その人が罪を犯していたなら、それもゆるされる。
5:16 だから、互に罪を告白し合い、また、いやされるようにお互のために祈りなさい。義人の祈は、大いに力があり、効果のあるものである。
5:17 エリヤは、わたしたちと同じ人間であったが、雨が降らないようにと祈をささげたところ、三年六か月のあいだ、地上に雨が降らなかった。
5:18 それから、ふたたび祈ったところ、天は雨を降らせ、地はその実をみのらせた。
地上を歩む日々は荒野を進む日々かのようで、忍耐が必要だが、いくら忍耐を喜びなさいと言われても、そうできない弱さが私達にはある。
だからこそ、聖徒の交わりの中で、特に信仰の先輩たちの助けを得つつ、また互いに祈り合いつつ、この荒野を乗り切って行く必要があるのだ。
そして私達も成長したなら、信仰の先輩となって、罪の道、滅びの道を歩んでいる人達を救うべきである。
5:19 わたしの兄弟たちよ。あなたがたのうち、真理の道から踏み迷う者があり、だれかが彼を引きもどすなら、
5:20 かように罪人を迷いの道から引きもどす人は、そのたましいを死から救い出し、かつ、多くの罪をおおうものであることを、知るべきである。