メッセージ - 沈黙に対する表明により露わにされたヨブの内面(ヨブ記3章)
沈黙に対する表明により露わにされたヨブの内面(ヨブ記3章)
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ヨブ記3章からはヨブと彼の友人達との議論に入り、文体は詩文体となる。
3:1 この後、ヨブは口を開いて、自分の生れた日をのろった。
3:2 すなわちヨブは言った、
ここの「言った」はヘブライ語でアナー、直訳すると「答えて言った」である。
彼の友人達は、7日間ずっと沈黙し、ただ、彼と一緒にすわっていただけであるが、ヨブは一体、何に「答えて」言ったのか。
それは、彼の友人達の「沈黙という言葉」に対して、すなわち、耳に聞こえない、意図を伝えない、ただそこに居て、本人を見、存在している人格に対し「答えて言った」のである。
「沈黙という言葉」は、本人自身の心をあらわにする鏡のようである。聞こえず、意図を伝えないだけに。
沈黙という言葉に「答える」とするなら、その本人の答えという表明により本人自身の心を表しており、それまで知られなかった本人の心の中が、それによって露わにされる。
「沈黙という言葉」は、そのような力を持っているのだ。
ヨブの、友人達の沈黙という言葉にたいする返答内容は、自分の生まれた日を呪う内容だった。
3:3 「わたしの生れた日は滅びうせよ。『男の子が、胎にやどった』と言った夜も/そのようになれ。
3:4 その日は暗くなるように。神が上からこれを顧みられないように。光がこれを照さないように。
3:5 やみと暗黒がこれを取りもどすように。雲が、その上にとどまるように。日を暗くする者が、これを脅かすように。
3:6 その夜は、暗やみが、これを捕えるように。年の日のうちに加わらないように。月の数にもはいらないように。
3:7 また、その夜は、はらむことのないように。喜びの声がそのうちに聞かれないように。
3:8 日をのろう者が、これをのろうように。レビヤタンを奮い起すに巧みな者が、/これをのろうように。
3:9 その明けの星は暗くなるように。光を望んでも、得られないように。また、あけぼののまぶたを見ることのないように。
3:10 これは、わたしの母の胎の戸を閉じず、/また悩みをわたしの目に隠さなかったからである。
ヨブは徹底的に、自分が生まれた日を呪っている。
その誕生した日および自身のいのちが宿った夜そのものが無くなって、カレンダーから抹消される事を願っているのだ。
主は創世のはじめに光よあれと言葉を発せられ、無秩序から秩序へと世界を整えて行き、そして、いのちを創った。
ヨブは、あまりの苦しみゆえに、神の創造の一連の働きが、全く逆行して、自分の生まれた日は無くなってしまうように、と呪っている。
そのような言葉を聞く時、「ちょっと待った」と言いたくなるかもしれないが、ヨブのこの時の状況は、その身体にひっきりなしのかゆみという、もう一瞬たりとも耐え難い苦しみの中にあるのみならず、持ち物を失い、子供達を全部失ってしまったのだ。
主にある兄弟姉妹が、その苦しみの中から絞り出されて来た言葉を聞いた時、額面通り受け取って一言一言に対して、論理的に正論で答えるのは、赤ん坊が泣いているのを論理的な正論で黙らせようとするような事である。
エリシャに良くしてあげたシュネムの女は、その働きの報いとして、子が与えられたが、しかしその子は死んでしまった。
その時彼女も、ヨブのように自暴自棄な言葉を発したが、エリシャは、彼女の言葉を額面通り受け取って返すのではなく、すぐに執り成し祈る体制に入った。(2列王記4:8-37)
イエス様も、38年もの間病で誰も助ける者がいなかった人に対し、つぶやきの言葉を額面通り返すのでなく、ただ、癒やしの言葉をかけられた。(ヨハネ5:1-9)
しかしヨブの友人達は、ヨブの言葉を額面通り受け止め、それを延々と正論で返す愚を演じてしまう事になる。
3:11 なにゆえ、わたしは胎から出て、死ななかったのか。腹から出たとき息が絶えなかったのか。
3:12 なにゆえ、ひざが、わたしを受けたのか。なにゆえ、乳ぶさがあって、/わたしはそれを吸ったのか。
3:13 そうしなかったならば、/わたしは伏して休み、眠ったであろう。そうすればわたしは安んじており、
彼はあまりの苦しみゆえに、生まれてからすぐに死んでしまっていればよかったのに、と吐露している。
死ぬ事をあこがれるのだが、死は彼から遠ざかり、ただ、一瞬一瞬苦しみの中を行きなくてはならない状態である。
がんの末期症状に入って、ただひっきりなしの痛みに襲われている人のように。
そのような時、人は、ヨブの以下の言葉のように考える。
3:20 なにゆえ、悩む者に光を賜い、/心の苦しむ者に命を賜わったのか。
3:21 このような人は死を望んでも来ない、/これを求めることは隠れた宝を/掘るよりも、はなはだしい。
3:22 彼らは墓を見いだすとき、非常に喜び楽しむのだ。
3:23 なにゆえ、その道の隠された人に、/神が、まがきをめぐらされた人に、光を賜わるのか。
3:24 わたしの嘆きはわが食物に代って来り、/わたしのうめきは水のように流れ出る。
なぜ自分はいのちがあるのか。
なぜ、こんなにも耐え難い苦しみに悩まされながらも、生きなくてはならないのか。
このように、片時足りとも耐え難い苦しみに悩まされる時、人は、今まで考えた事もなかった事、すなわち、いのちの存在理由と、そのいのちを与えて下さったお方の存在を考えるようになる。
その時、神に心を向け、立ち返る人は、救われる。
実際、末期がんのさ中、主に心を向け、主を知り、そして奇跡的に助かって、神の栄光のために用いられるようになった人は多い。
3:25 わたしの恐れるものが、わたしに臨み、/わたしの恐れおののくものが、わが身に及ぶ。
3:26 わたしは安らかでなく、またおだやかでない。わたしは休みを得ない、ただ悩みのみが来る」。
ヨブは結局、「わたしの恐れるものが、わたしに臨み、/わたしの恐れおののくものが、わが身に及」んだのだ。
彼は羽振りがよかった時から、常に、その恐れがあり、その恐れのゆえに、義人としての行いを保っていたのだ。
そして、心の中で恐れていたとおりに、すなわち、信じたとおりに、なってしまったのだ。
その心があったから、サタンは、彼に触れる許可を得られたのであろう。
このように、地獄を恐れるから、今持っているものを失いたく無いから、義人のように良い行いを無理矢理にでもして、罪の楽しみを(本当は楽しみたいのだけれど嫌々ながら)我慢する、とするなら、それは実に、「貧しい義人」である。
神はヨブを、このような状態で一生を終わらせる所から、救い出される。災いによって、サタンを用いてでも。
しかし最終的に、彼は、この一連の出来事により、以前はおぼろげであった神観が、一層はっきりし、財産も以前の二倍祝福され、以前よりも優れた子供が生まれ、以前よりもより一層、親密な神との交わりを得るという結論が、ヨブ記の結論である。
神は、全ての事を益として変えて下さるお方であり、最善以下の事はなさらないお方である。
私達が「なぜ」と思えるような事でも、それを結局は、想像すらしていなかったトーブ(良し)へと導いて下さるのだ。