メッセージ - ヘセド(慈しみ)が枯れてしまっている言葉に絶望したヨブ(ヨブ記6章)
ヘセド(慈しみ)が枯れてしまっている言葉に絶望したヨブ(ヨブ記6章)
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テマン人エリファズの諭しに対する、ヨブの答えが、6章と7章である。
6:1 ヨブは答えて言った、
6:2 「どうかわたしの憤りが正しく量られ、/同時にわたしの災も、はかりにかけられるように。
6:3 そうすれば、これは海の砂よりも重いに相違ない。それゆえ、わたしの言葉が軽率であったのだ。
6:4 全能者の矢が、わたしのうちにあり、/わたしの霊はその毒を飲み、/神の恐るべき軍勢が、わたしを襲い攻めている。
エリファズに対するヨブの真っ先の答えは、今自分に計り与えられている災いや苦悶の重さがどれほどであるか、計られるように、という事だった。
絶望と苛立ちの荒波に揉まれているヨブの思いとすれば、それが海の砂よりも重いに違いない、という思いから出てきた言葉であろう。
ヨブは、自分の言葉が軽率であったと自覚している。
「軽率」と訳された語「ルアー」の語根は、「早口で話す」あるいは「抑制なしに話す」という意味がある
しかし、理性を保とうとしているヨブの友人達からすれば、彼の抑制なしの言葉や、「これは海の砂よりも重い」という感覚的な言葉は、格好の攻撃材料になり、もっとヨブを苦しめるだろう。
私達は、理性的であると同時に、理性を失っている人の導き方の心得も得られるよう、聖霊に求めるべきだ。
6:5 野ろばは、青草のあるのに鳴くであろうか。牛は飼葉の上でうなるであろうか。
ヨブが今鳴いたりうなったりしているのは、理由なしではない。
6:6 味のない物は塩がなくて食べられようか。すべりひゆのしるは味があろうか。
6:7 わたしの食欲はこれに触れることを拒む。これは、わたしのきらう食物のようだ。
「すべりひゆのしる」はヘブライ語でリィル、意味の特定は難しいが、どろどろしたもので、聖書では2回した使われておらず、ここの他で使われているのは、ダビデが気違いを装った時、彼の口から出した”よだれ”で、この語が使われている。
エリファズの口から出た言葉は、まさに気違いが発したよだれのよう、そして塩気が無い言葉で、ヨブとしては到底、受け入れられないものだったのだ。
6:8 どうかわたしの求めるものが獲られるように。どうか神がわたしの望むものをくださるように。
6:9 どうか神がわたしを打ち滅ぼすことをよしとし、/み手を伸べてわたしを断たれるように。
6:10 そうすれば、わたしはなお慰めを得、/激しい苦しみの中にあっても喜ぶであろう。わたしは聖なる者の言葉を/否んだことがないからだ。
ヨブは再び死を願っているが、3章と違う所は、その叫びの中に、神との関わりがある所だ。
彼は、主ご自身に打たれる事が慰めだ、と言っている。
なお、10節で「わたしは聖なる者の言葉を/否んだことがないからだ。」と言っているが、これはヨブ自身、罪を犯したことは無い、と主張しているのではない。
彼は全能者を前に、自分は罪ある者であることを自覚している。(7:20-21)
ただ、彼は本当に、聖なる方の言葉を、自ら意図して否んだ記憶は無く、ただ、御前に忠実に仕えようとして来た事しか思い当たらないのだ。
それは本当である。実際2章では、主がサタンに対し、ヨブがくちびるで罪を犯さなかった事を賞賛している。
6:11 わたしにどんな力があって、/なお待たねばならないのか。わたしにどんな終りがあるので、/なお耐え忍ばねばならないのか。
6:12 わたしの力は石の力のようであるのか。わたしの肉は青銅のようであるのか。
6:13 まことに、わたしのうちに助けはなく、/救われる望みは、わたしから追いやられた。
ヨブの友人達とすれば、ヨブを助け慰めるために来たので、この言葉は心外に聞こえたかもしれない。
しかしヨブからすれば、友人達は助けにならず、「忍耐しなくてはならない対象」でしかなかった。
なぜならヨブが求めていたものは、正論による諭しではなく、もっと別のものだったからである。
6:14 その友に対するいつくしみをさし控える者は、/全能者を恐れることをすてる。
ヨブは友から、いつくしみ(ヘセド)と求めていたのだ。
主はヘセドに満ちたお方、慈しみ深いお方である。忍耐があり、赦しがある。
だから罪と弱さを持つ人間は、その慈しみにより、救われる余地があるのである。
もし慈しみが無いなら、全能者を前に、絶望する以外に無く、その人は「何をしても無駄だ」と自暴自棄になってしまう。
6:15 わが兄弟たちは谷川のように、/過ぎ去る出水のように欺く。
6:16 これは氷のために黒くなり、/そのうちに雪が隠れる。
6:17 これは暖かになると消え去り、/暑くなるとその所からなくなる。
6:18 隊商はその道を転じ、/むなしい所へ行って滅びる。
6:19 テマの隊商はこれを望み、/シバの旅びとはこれを慕う。
6:20 彼らはこれにたよったために失望し、/そこに来てみて、あわてる。
6:21 あなたがたは今わたしにはこのような者となった。あなたがたはわたしの災難を見て恐れた。
ヨブは、友人達が、川のように、出水のように欺いた、と言った。
隊商や旅人が荒野を旅する時、川を、水を慕い求め、熱い中を来たのに、来てみると、水はひからびて無かったのを発見し、失望してあわてるごとくに、ヨブは、友人達に対し、ヘセドの慈しみを期待したのに、それは友人達には無く、ひからびていたので、ヨブはとても失望したのだ。
私達が、教会の交わりにおいて必要な事が、ヘブル書に書いてある。
ヘブル13:1 兄弟愛を続けなさい。
13:2 旅人をもてなすことを忘れてはならない。このようにして、ある人々は、気づかないで御使たちをもてなした。
13:3 獄につながれている人たちを、自分も一緒につながれている心持で思いやりなさい。また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめなさい。
兄弟愛はギリシア語でフィラデルフィアと言う。主は黙示録3章において、フィラデルフィアの教会は来るべき患難の時代でも保たれる事を示している。
そしてフィラデルフィア教会には、一切、叱責は無い。
私達は患難の時、兄弟愛を保ち、また、罪に病に災いに繋がれている人達を、自分も一緒につながれている心持ちで思いやるべきであり、また、自分も同じ肉体にある者だから、苦しめられている人たちのことを、心にとめるべきなのだ。
ヨブはさらに強固に自分の正当性を主張する。
6:22 わたしは言ったことがあるか、『わたしに与えよ』と、/あるいは『あなたがたの財産のうちから/わたしのために、まいないを贈れ』と、
6:23 あるいは『あだの手からわたしを救い出せ』と、/あるいは『しえたげる者の手から/わたしをあがなえ』と。
6:24 わたしに教えよ、そうすればわたしは黙るであろう。わたしの誤っている所をわたしに悟らせよ。
ヨブの友人は、ヨブの状況を詳しく知らずに来た。それなのに、ヨブの罪を指摘し、悔い改めるように勧めた。
しかしヨブとしては、どの罪を犯したのか一切の心当たりは無く、実際にしていないのだ。
ヨブの友人は、神を敬うように、神の素晴らしさを説いた。
しかしヨブとしては、神が素晴らしいお方である事は百も承知なのだ。
悔い改めは、罪の自覚があって初めて出来るものであり、謝罪も、自分が悪いことをしたという自覚が必要である。
自覚が無い人に、いくら促しても、ただただ逆効果なのだ。
だから、自覚が無い人には、その人が神様と直接出会う事を求める事が最も有効である。
ヨブが後に、神と直接出会って、悔い改めたように。
6:25 正しい言葉はいかに力のある(マラツ:痛いという意味もある)ものか。しかしあなたがたの戒めは何を戒めるのか。
正しい言葉は力があるが、ヘセドが無いとしたら、それはただ痛いだけで癒やしがない。
私達は、愛と憐れみに満ちた主の霊に導かれ、知恵が与えられ、恵みによって人を癒やす事を学ばなくてはならない。
箴言12:18 つるぎをもって刺すように、みだりに言葉を出す者がある、しかし知恵ある人の舌は人をいやす。
6:26 あなたがたは言葉を戒めうると思うのか。望みの絶えた者の語ることは風のようなものだ。
ヨブがここで言っているように、絶望した者の言葉は、あらしのようである。
言葉の一つ一つを分析して論理的に戒めても、あらしに向かって戒めるようなもので、全く効き目はない。
むしろヨブは、もっと頑なに自己正当化してしまう。
6:27 あなたがたは、みなしごのためにくじをひき、/あなたがたの友をさえ売り買いするであろう。
6:28 今、どうぞわたしを見られよ、/わたしはあなたがたの顔に向かって偽らない。
6:29 どうぞ、思いなおせ、まちがってはならない。さらに思いなおせ、/わたしの義は、なおわたしのうちにある。
6:30 わたしの舌に不義があるか。わたしの口は災を/わきまえることができぬであろうか。
私達は兄弟愛をもって、また、ヘセドの恵みをもって、兄弟姉妹を滅びから救い出す者でありたい。
それは人間の知恵によらず、ただ、御霊に導かれてこそ出来るものである。