メッセージ - ビルダデによる最初の弁論 - 単純な格言では片付けようがない問題(ヨブ記8章)
ビルダデによる最初の弁論 - 単純な格言では片付けようがない問題(ヨブ記8章)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » ヨブ記
- 執筆 :
- pastor 2018-5-3 7:37
ビルダデによる最初の弁論 - 単純な格言では片付けようがない問題(ヨブ記8章)
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8章はヨブに対するシュアハ人ビルダデによる答弁である。
8:1 時にシュヒびとビルダデが答えて言った、
8:2 「いつまであなたは、そのような事を言うのか。あなたの口の言葉は荒い風ではないか。
8:3 神は公義を曲げられるであろうか。全能者は正義を曲げられるであろうか。
ビルダデの口から出た真っ先の言葉は、ヨブの言葉は荒い風のようだ、いつまでそのような事を言うのか、という、責め立てる言葉だったが、ヨブ自身、自分の言葉は風のようであると自覚しており、その理由は、望みが絶えたからであり、霊のもだえと魂の苦しみゆえに口を制御できない、と、既に言っていた。(6:26,7:11)
だからヨブに対しそのように言うのは、風邪をひいた人に対して、なぜそのように荒く咳をするのか、と言うようなものである。
さらに彼は、歯に衣着せずに言う。
8:4 あなたの子たちが彼に罪を犯したので、/彼らをそのとがの手に渡されたのだ。
口語訳や新共同訳では、明確に、ヨブの子達が神に罪を犯したゆえに災いが起きた、と言っているが、KJVや新改訳では「”もし”、あなたの子らが神に罪を犯し」と訳している。
ここの「もし」は、「見よ!」とも訳せる語「イム」であるゆえ訳が分かれているのだが、いずれにせよ彼は子達にかかった災いを子達の犯した罪と関連づけ、ヨブはそれに対し何の反対もしていない所を見ると、やはりヨブ自身、子達が神に対して何らかの罪を犯したからだ、という自覚があるのだろう。
8:5 あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば、
8:6 あなたがもし清く、正しくあるならば、/彼は必ずあなたのために立って、/あなたの正しいすみかを栄えさせられる。
8:7 あなたの初めは小さくあっても、/あなたの終りは非常に大きくなるであろう。
確かにその通りなのだが、ヨブは既に神に激しく求め祈っている。
ヨブ自身には、神に激しく求めて祈った記憶が明確にあるのに、なお、「あなたがもし神に求め、全能者に祈るならば」と言われても、ただ気分を害する以外にないし、本人自身、清く正しく歩んで来たという記憶しかないのに「あなたがもし清く、正しくあるならば」と言われても、全く心に届かないし、「あなたの初めは小さくあっても、/あなたの終りは非常に大きくなるであろう」と言われても、何の慰めにもならない。
8:8 先の代の人に問うてみよ、/先祖たちの尋ねきわめた事を学べ。
8:9 われわれはただ、きのうからあった者で、/何も知らない、/われわれの世にある日は、影のようなものである。
8:10 彼らはあなたに教え、あなたに語り、/その悟りから言葉を出さないであろうか。
エリファズは自分が体験した神秘体験を元にヨブを諭したが、ビルダデは先人の知恵を元に諭す。
11-19節は、神を忘れる者・神を信じない者は実にもろく、くもの巣によりかかっているようなものだ、いかに生い茂っていたとしてもすぐに枯れてしまうものだ、という、一連の格言を披露し、そうして次のように結論づける。
8:20 見よ、神は全き人を捨てられない。また悪を行う者の手を支持されない。
8:21 彼は笑いをもってあなたの口を満たし、/喜びの声をもってあなたのくちびるを満たされる。
8:22 あなたを憎む者は恥を着せられ、/悪しき者の天幕はなくなる」。
シュアハ人ビルダデの答弁は、単純に正論で、ヨブも「まことに、そのとおりであることを私は知っている。」と答えている。(9:2)
しかしヨブが直面している問題は、そんなに単純ではないのだ。
ヨブ自身、道を外した記憶も、悪を行った記憶も無く、なにより、神ご自身から「彼のように潔白で正しく、神を恐れ、悪から遠ざかっている者はひとりも地上にはいない」(2:3)と言われる程なのだから、「罪を犯したらすなわち災いが、きよく歩んだならすなわち幸いが」という単純な論理をヨブに押し付けられても、全くあさってに聞こえただろう。
ヨブは単純に思い出せるような罪を犯していないのに、こんなにも酷い災いに遭ってしまっている事、そして、その意味が見いだせない事こそ、切実な問題なのだ。
人は、罪を犯した、犯していない、で世の諸々を片付けようとする。
イエス様の弟子だって、そうだった。しかし、イエス様の答えは、人の思い込みと論法とは別次元のものである。
ヨハネ9:1 イエスが道をとおっておられるとき、生れつきの盲人を見られた。
9:2 弟子たちはイエスに尋ねて言った、「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
9:3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
それは神の栄光あらわれるため。
これが、イエス様の答えである。
そうである。ヨブ記前半から中盤は、ただだれが罪を犯した、犯していない、の激しい応酬で、何の益も生み出さなかったが、後半は、神の圧倒的な栄光で満ち満ちている。
人のあらゆる弱さ、災い、そして犯して来た罪さえ、全部、神の栄光へと変えて下さる私達の主イエス様こそ、偉大なお方である。