メッセージ - 神と論じ合う(ヨブ記13章)
神と論じ合う(ヨブ記13章)
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ヨブは友人達に対し、さらに語る事を止めない。
ヨブ記13:1 見よ、わたしの目は、これをことごとく見た。わたしの耳はこれを聞いて悟った。
ヨブ記13:2 あなたがたの知っている事は、わたしも知っている。わたしはあなたがたに劣らない。
ヨブ記13:3 しかしわたしは全能者に物を言おう、わたしは神と論ずることを望む。
ヨブは、友人達のあまりに的を外した心なしの格言に飽々して怒り、ついに、神に挑戦したい事を表明する。
彼は今まで、ここまではっきりと「神と論ずる事を望む」と言い切った事は無かった。いわば友人達の心なしの格言の応酬が、ヨブをそのように引き出したのだ。
友人達からすれば、なんと恐れ多い言葉を神に発してしまったのか、と思う所かもしれないが、実を言うと、「神と向き合って論じあおう」としたその時点が、その人にとっての重要な転換点となる。
神と論じ合おうとする事は、とても重要である。
イザヤ1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
イザヤ1:19 もし、あなたがたが快く従うなら、地の良き物を食べることができる。
イザヤ1:20 しかし、あなたがたが拒みそむくならば、つるぎで滅ぼされる」。これは主がその口で語られたことである。
イザヤ書では、主が「互いに論じよう」と言っており、それによって、緋のような罪が白く、紅のような赤い罪が羊の毛のようにされていく、というのだ。
人にとって、創造主と一緒になって密接に関わる事こそ、最も大事である。それがたとえ、喧嘩腰であったとしても。
旧約の偉人・エノク、ノア、アブラハムに共通しているキーワードは、神と共に「歩む(ハーラフ)」である。(創世記5:22-24, 6:9,12:1-2)
彼らは、罪深い時代・罪深い人々の中に住んでは居ても、周囲の愚かさや思想とは一つにならなかった。それは主と共に歩み、主の御言葉を守り行い、そうして「全き者」(創世記17:1)となって行ったからだ。
神と共に「歩む(ハーラフ)」、それは神の民の必須条件であり、祝福に必要不可欠な行動である。
主はエデンの園を「歩き回られた(ハーラフ)」(創世記3:8 )。 私達も、主と共に歩きまわるなら、そこはエデン(「歓喜の場所」という意味」)であり、たとい死の陰の谷を「歩む」としても、主と共に歩んでいるなら、そこには慰めがあり、敵の前で宴を設けられ、杯は溢れ、恵みといつくしみが追って来るのだ。(詩篇23編)
そして、呪われるための近道は、祝福の源なる神との密接な関わりと解く事、神から離れる事である。ちょうどカインのように。
ヨブはこの時点、主に対して怒っていたものの、主に対して激しく論じて行き、そして主は彼と激しく論じて下さり、そうして後、倍の恵みを施して下さった。
ちょうどヤコブが、神と取っ組み合いの相撲を取り、その後に祝福が与えられ、新しい名イスラエルが与えられたように。
私達も進んで、神と関わり合うべきである。
ヨブ記の結論は、ヤコブ5:11である。
ヤコブ5:11 忍び抜いた人たちはさいわいであると、わたしたちは思う。あなたがたは、ヨブの忍耐のことを聞いている。また、主が彼になさったことの結末を見て、主がいかに慈愛とあわれみとに富んだかたであるかが、わかるはずである。
多くの人々は、ヨブ記を、なんにも悪い事をしていない正しい人に、なぜ災いが起きるのか、という「神の不条理」を扱った文献と思っているが、その解釈は、中途の災いにしかフォーカスしていない人間の解釈である。
ヨブ記の結論、それはヤコブ書に書いてある通り、「忍耐した人は幸いである」「主はいかに慈愛とあわれみとに富んだ方か」という事だ。
実際ヨブ記を全部読んでみると、ヨブが災いに遭っていた日々に比べ、祝福と幸いに満ちた年数の方が、圧倒的に多いではないか。
ただ、このヨブ記13章という時点では、彼は激しく怒っており、神と論じ合あおうという勢いだが、その前に彼は友人達をこてんぱんにこき下ろす。
ヨブ記13:4 あなたがたは偽りをもってうわべを繕う者、皆、無用の医師だ。
ヨブ記13:5 どうか、あなたがたは全く沈黙するように。これがあなたがたの知恵であろう。
ヨブ記13:6 今、わたしの論ずることを聞くがよい。わたしの口で言い争うことに耳を傾けるがよい。
ここまで言われてしまっては、友人達もさらにヒートアップせざるを得ない。
ヨブ記13:7 あなたがたは神のために不義を言おうとするのか。また彼のために偽りを述べるのか。
ヨブ記13:8 あなたがたは彼にひいきしようとするのか。神のために争おうとするのか。
ヨブ記13:9 神があなたがたを調べられるとき、あなたがたは無事だろうか。あなたがたは人を欺くように彼を欺くことができるか。
ヨブ記13:10 あなたがたがもし、ひそかにひいきするならば、彼は必ずあなたがたを責められる。
ヨブ記13:11 その威厳はあなたがたを恐れさせないであろうか。彼をおそれる恐れがあなたがたに臨まないであろうか。
ヨブは、彼らが自分達を教え諭す者、「高い者」として位置づけ、「低められているヨブ」「間違っているヨブ」を教え諭し、正しい方向に導こうとして、実際は的を外した格言を並べ立てている事を、ヨブは、「神に成り代わっている」「傲慢だ」と非難し、神がそんなあなた方に現れるならあなた方は耐えられるのか、とまで言っている。
ヨブ記13:12 あなたがたの格言は灰のことわざだ。あなたがたの盾は土の盾だ。
ヨブ記13:13 黙して、わたしにかかわるな、わたしは話そう。何事でもわたしに来るなら、来るがよい。
彼はもはや、友人達には黙っていてほしい、自分はただ、神と関わりたい、という願いを叫びの中で打ち明けた。
人は、人生の中でどうしようも超えられない苦難や悲しみに直面した時、何かの慰めや解決を求めて、誰か「人」に行くなら、大体、もっと失望するものだ。
苦難や悲しみの度合いが深ければ深い程、なお、そうである。
そのような時、ヨブのように、人にではなく、神に向かうべきなのだ。
ヨブ記13:14 わたしはわが肉をわが歯に取り、わが命をわが手のうちに置く。
ヨブ記13:15 見よ、彼はわたしを殺すであろう。わたしは絶望だ。しかしなおわたしはわたしの道を彼の前に守り抜こう。
ヨブ記13:16 これこそわたしの救となる。神を信じない者は、神の前に出ることができないからだ。
ヨブ記13:17 あなたがたはよくわたしの言葉を聞き、わたしの述べる所を耳に入れよ。
ヨブ記13:18 見よ、わたしはすでにわたしの立ち場を言い並べた。わたしは義とされることをみずから知っている。
ヨブ記13:19 だれかわたしと言い争う事のできる者があろうか。もしあるならば、わたしは黙して死ぬであろう。
ヨブは何もかも失い、瞬間瞬間、ひどい”かゆみ”に悩まされ、さらには、友人達にも悩まされている状態である。
もう自分は失う者は無い、どころか、瞬間瞬間ただ苦痛だ、もうどうなってもいい、ともかく、ここまでなったからには神と論じ合いたい、と求めるようになった。
それで20節以降、神との論議に入るのだが、しかし最初の論調は、友人達に示したような凛々しく激しい態度ではなく、まずは、恐る恐るのお願いから始まる。
ヨブ記13:20 ただわたしに二つの事を許してください。そうすれば、わたしはあなたの顔をさけて隠れることはないでしょう。
ヨブ記13:21 あなたの手をわたしから離してください。あなたの恐るべき事をもってわたしを恐れさせないでください。
ヨブ記13:22 そしてお呼びください、わたしは答えます。わたしに物を言わせて、あなたご自身、わたしにお答えください。
つまり、神の圧倒的な力と圧倒的な正しさでわたしを圧迫しないで下さい、この痛手を取り除いてください、そして、わたしが話せるように、お膳立てして下さい、というのだ。
神に論じ合いたい!と激しく迫っておきながら、神に憐れみを求めているのである。
なんと調子の良い、と思えるかもしれないが、私達も神にお願いする時、調子よくお願いするものである。
ヨブはさらに、調子の良い申し出をする。
ヨブ記13:23 わたしのよこしまと、わたしの罪がどれほどあるか。わたしのとがと罪とをわたしに知らせてください。
ヨブ記13:24 なにゆえ、あなたはみ顔をかくし、わたしをあなたの敵とされるのか。
ヨブ記13:25 あなたは吹き回される木の葉をおどし、干あがったもみがらを追われるのか。
ヨブ記13:26 あなたはわたしについて苦き事どもを書きしるし、わたしに若い時の罪を継がせ、
ヨブは、自分が罪を犯した者であると自覚している。
そして、自分が若き時に犯した罪は、ほんの木の葉ほどだ、そんな小さな一つ一つの罪さえも詳細に記録して、ご覧になられるのか、と、申し上げている。
ヨブ記13:27 わたしの足を足かせにはめ、わたしのすべての道をうかがい、わたしの足の周囲に限りをつけられる。
ヨブ記13:28 このような人は腐れた物のように朽ち果て、虫に食われた衣服のようにすたれる。
昔、奴隷を持っていた主人は、奴隷の足型を取るか、あるいは足の裏に焼き印を押す。それは万一奴隷が逃げたとしても、その足あとから、どの奴隷が、どこに逃げたのかを特定するためだった。
ヨブは神に対し、自分の足あとの記録を、良しも悪しもつぶさに記録し、その一つ一つを入念に調べつくされているような気がしたのだ。
現在インターネット上で、人々がネット上で行った物事が全部、ウェブログ上に記録されているように。
ヨブは、神よ、あなたはそんな足あとの一つ一つも記録しておられるのですか、そんな事をしたら、誰も彼も、腐れた物のように朽ち果て、虫に食われた衣服のようにすたれてしまいますよ、と申し上げている。
そう、そんな事をされたら、人は、ひとたまりもない、と思う。しかし神は、ウェブログよりもさらに詳細に一人一人の記録をしておられ、それによって終わりの日、裁かれる事になる。
人は人生の内で、一体いくつ、主に打たれても仕方がない罪を犯して来ただろうか。ヨブでさえ、そうなのだ。
一体なぜ人は、主の御前に死罪に値するような事を何遍も犯しているのに、主に打たれずに、こうして生きながらえているのか。
それは、「神の恵み」故である。
私達は今、恵みの中で生かされている。
神は、悪は即処罰と機械的に処断するお方ではなく、情状酌量して下さるお方であり、私達はこの恵みの日、救いの日の内に、キリストの十字架の贖いの覆いへと、飛び込んでいくべきである。救われるために。
神と積極的に関わっていくべきである。
ダビデは積極的に、神に情状酌量を求めて祈った。
詩篇25:6 主よ、あなたのあわれみと、いつくしみとを思い出してください。これはいにしえから絶えることがなかったのです。
詩篇25:7 わたしの若き時の罪と、とがとを思い出さないでください。主よ、あなたの恵みのゆえに、あなたのいつくしみにしたがって、わたしを思い出してください。
詩篇25:8 主は恵みふかく、かつ正しくいらせられる。それゆえ、主は道を罪びとに教え、
詩篇25:9 へりくだる者を公義に導き、へりくだる者にその道を教えられる。
詩篇25:10 主のすべての道はその契約とあかしとを守る者にはいつくしみであり、まことである。
詩篇25:11 主よ、み名のために、わたしの罪をおゆるしください。わたしの罪は大きいのです。
積極的に神と関わり、時にはヨブのように神と論じ合い、時にはヤコブのように神と相撲を取り合い、神と仲良く共に歩みつつ、造り変えられ続け、祝福の実りを豊かに実らせていく皆様の人生でありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!