メッセージ - 旧約では開示されていなかった、人の死んだ後の有り方(ヨブ記14章)
旧約では開示されていなかった、人の死んだ後の有り方(ヨブ記14章)
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14:1 女から生れる人は/日が短く、悩みに満ちている。
14:2 彼は花のように咲き出て枯れ、/影のように飛び去って、とどまらない。
14:3 あなたはこのような者にさえ目を開き、/あなたの前に引き出して、さばかれるであろうか。
ヨブはさらに、神に向かって疑問と願いを投げかける。
こんな花のようなはかない自分にさえ目を留めて徹底してさばかれるのですか、と。
14:4 だれが汚れたもののうちから清いものを/出すことができようか、ひとりもない。
イザヤも告白している。自分はくちびるの汚れた民の間に住んでおり、くちびるの汚れた者だ、と。
そしてヨブ自身、自分が汚れた者であり、どう考えても、どう転んでも、自分の中から良いものをひねり出す事は出来ない。
今まで多大な努力をしたけれども出来なかった、と。
ヨブのような義人でさえ、そうなのだ。人間、誰もが、どう転んでも罪の中にある。
しかし神は、この時ヨブが考えているような、すなわち、人間の罪を事細かにつまんで、裁いて、苦しみのまま放置されるようなお方ではない。
神は実に、その、人の罪と死という問題を扱うために、ひとり子キリストをお与えになる程の愛をもって愛し、創世記3章から黙示録20章までの膨大な贖いと救いのご計画を発動されたのだ。
それは、信じる者が誰一人として滅びる事なく、永遠のいのちを持ってほしいと、願っておられるからである。
14:5 その日は定められ、/その月の数もあなたと共にあり、/あなたがその限りを定めて、/越えることのできないようにされたのだから、
14:6 彼から目をはなし、手をひいてください。そうすれば彼は雇人のように、/その日を楽しむことができるでしょう。
ヨブは願っている。限り有る人生、死んだらおしまいなのだから、せめて、罪有る人間にそんなに目を留めず、手を引いて下さい、かまわないでください、そうすれば、人はそのはかない人生の中、はかない楽しみができるでしょう、と。
あいにく聖書は、そのようなはかない現世利得を提供して、せいぜい生きている間は楽しみなさい、というようなものではない。
ヨブは、私から目をそらして下さい、かまわないでください、と言ったが、とんでもない。
イエス様の十字架の場面で、二人の強盗も刑罰を受けていたが、その内の一人の言葉に注目したい。
ルカ23:40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
23:41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
23:42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
23:43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
この強盗の人生は、ヨブに比べ、圧倒的に義人とは遠い生き方をして来た、にもかかわらず、彼はその日、イエス様と共にパラダイスに行った。なぜだろうか。
それは、強盗はイエス様に「御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」と言った。
そう、「わたしを思い出してください」と、関わりを求めて行ったから、彼はパラダイスに行けたのだ。
ヨブは義人であったが「かまわないでください」と言って、苦しみが続いた。
しかし強盗は、自分の罪ゆえの刑罰から来る痛みの中でも、自分の罪を認め、自分には到底及ばない御国の王位に着かれるイエス様に「思い出してくださ」と関わりを求めたからこそ、彼はパラダイスに行けたのだ。
14:7 木には望みがある。たとい切られてもまた芽をだし、/その若枝は絶えることがない。
14:8 たといその根が地の中に老い、/その幹が土の中に枯れても、
14:9 なお水の潤いにあえば芽をふき、/若木のように枝を出す。
14:10 しかし人は死ねば消えうせる。息が絶えれば、どこにおるか。
14:11 水が湖から消え、/川がかれて、かわくように、
14:12 人は伏して寝、また起きず、/天のつきるまで、目ざめず、/その眠りからさまされない。
14:13 どうぞ、わたしを陰府にかくし、/あなたの怒りのやむまで、潜ませ、/わたしのために時を定めて、/わたしを覚えてください。
14:14 人がもし死ねば、また生きるでしょうか。わたしはわが服役の諸日の間、/わが解放の来るまで待つでしょう。
ヨブの哲学は、人はひと度死んでしまったら、もう生き返らない、というものだった。
旧約においては死んだ後の概念が新約ほどはっきりしたものではなかった。
最高の知恵が与えられたソロモンでさえ、次のように言った。
伝道者の書3:20 みな一つ所に行く。皆ちりから出て、皆ちりに帰る。
3:21 だれが知るか、人の子らの霊は上にのぼり、獣の霊は地にくだるかを。
3:22 それで、わたしは見た、人はその働きによって楽しむにこした事はない。これが彼の分だからである。だれが彼をつれていって、その後の、どうなるかを見させることができようか。
こういうわけで、旧約は、死後の概念があいまいで、地上で生きている限りの幸いこそ全てだと思われていた所もあり、死人の復活を信じないサドカイ派もあれば、復活を信じるパリサイ派もあった。
しかし主は、新約において、死後どのようになるのかを、はっきりさせて下さった。
黙示録20:11 また見ていると、大きな白い御座があり、そこにいますかたがあった。天も地も御顔の前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
20:12 また、死んでいた者が、大いなる者も小さき者も共に、御座の前に立っているのが見えた。かずかずの書物が開かれたが、もう一つの書物が開かれた。これはいのちの書であった。死人はそのしわざに応じ、この書物に書かれていることにしたがって、さばかれた。
20:13 海はその中にいる死人を出し、死も黄泉もその中にいる死人を出し、そして、おのおのそのしわざに応じて、さばきを受けた。
20:14 それから、死も黄泉も火の池に投げ込まれた。この火の池が第二の死である。
20:15 このいのちの書に名がしるされていない者はみな、火の池に投げ込まれた。
このように、死後、必ずよみがえらされ、おのおの「しわざ」に応じてのさばきがあり、そして、死も、よみも、火の池へと投げ込まれる。
善人も悪人も同じところに行く、というのは、誰もが訪れる「第一の死」においては、そうだろう。
しかしその後にさばきがあり、主の前に悪と見られた人は、永遠の死、「第二の死」に入るのだ。
2コリント5:1-10
5:1 わたしたちの住んでいる地上の幕屋がこわれると、神からいただく建物、すなわち天にある、人の手によらない永遠の家が備えてあることを、わたしたちは知っている。
5:2 そして、天から賜わるそのすみかを、上に着ようと切に望みながら、この幕屋の中で苦しみもだえている。
5:3 それを着たなら、裸のままではいないことになろう。
5:4 この幕屋の中にいるわたしたちは、重荷を負って苦しみもだえている。それを脱ごうと願うからではなく、その上に着ようと願うからであり、それによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためである。
5:5 わたしたちを、この事にかなう者にして下さったのは、神である。そして、神はその保証として御霊をわたしたちに賜わったのである。
5:6 だから、わたしたちはいつも心強い。そして、肉体を宿としている間は主から離れていることを、よく知っている。
5:7 わたしたちは、見えるものによらないで、信仰によって歩いているのである。
5:8 それで、わたしたちは心強い。そして、むしろ肉体から離れて主と共に住むことが、願わしいと思っている。
5:9 そういうわけだから、肉体を宿としているにしても、それから離れているにしても、ただ主に喜ばれる者となるのが、心からの願いである。
5:10 なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
私達には、キリストにあってさばきを免れ、永遠のいのちに至る望みがある。
ヨハネ5:25 よくよくあなたがたに言っておく。死んだ人たちが、神の子の声を聞く時が来る。今すでにきている。そして聞く人は生きるであろう。
5:26 それは、父がご自分のうちに生命をお持ちになっていると同様に、子にもまた、自分のうちに生命を持つことをお許しになったからである。
5:27 そして子は人の子であるから、子にさばきを行う権威をお与えになった。
5:28 このことを驚くには及ばない。墓の中にいる者たちがみな神の子の声を聞き、
5:29 善をおこなった人々は、生命を受けるためによみがえり、悪をおこなった人々は、さばきを受けるためによみがえって、それぞれ出てくる時が来るであろう。
ある人は、さばきのためによみがえらされ、ある人は、生命を受けるためによみがえらされる。
その分岐点は、キリストの御声を聞いて善をおこなうか、それとも悪をおこなうか、である。