メッセージ - ヨブが神に捨てられ人からも捨てられたと思った時に求めた、神と人との間に立つ仲保者(ヨブ記16章)
ヨブが神に捨てられ人からも捨てられたと思った時に求めた、神と人との間に立つ仲保者(ヨブ記16章)
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- 執筆 :
- pastor 2018-5-18 9:02
ヨブが神に捨てられ人からも捨てられたと思った時に求めた、神と人との間に立つ仲保者(ヨブ記16章)
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16-17章は、ヨブによるエリファズへの回答なのだが、といっても、彼の友人に向けられた言葉はわずかで、多くの言葉は、主に向けられている。
16:1 そこでヨブは答えて言った、
16:2 「わたしはこのような事を数多く聞いた。あなたがたは皆人を慰めようとして、/かえって人を煩わす者だ。
16:3 むなしき言葉に、はてしがあろうか。あなたは何に激して答をするのか。
ヨブは、エリファズの15章の1節から35節にわたっての論説を、わずかな言葉でばっさり切った。
状況を見極めず、ただ自分の思い込みによって相手を計り、その誤った動機から発せられた格言が、立派であればあるほど、また長々としていればいるほど、煩わしいものだ。
16:4 わたしもあなたがたのように語ることができる。もしあなたがたがわたしと代ったならば、/わたしは言葉を練って、あなたがたを攻め、/あなたがたに向かって頭を振ることができる。
16:5 また口をもって、あなたがたを強くし、/くちびるの慰めをもって、あなたがたの苦しみを/和らげることができる。
ヨブは、もし自分と友人達の立場が逆転したら、言葉を練って友人達を攻め、友人達に向かって頭を振る(すなわち、あざけりばかにする)事が出来、そして言葉でもってあなた方を強くし、苦しみを和らげる事が出来る、と、批判とも嫌味とも取れる事を言ったが、いずれにしてもヨブは、人も神からも何の助けを得られない事を嘆いている。
16:6 たといわたしは語っても、/わたしの苦しみは和らげられない。たといわたしは忍んでも、/どれほどそれがわたしを去るであろうか。
ヨブは、以上の言葉をもって、友人達への言葉は終わりにし、そして7節以降の言葉は、再び神に向けられる。
彼は再び吐露し始める。友人達から、そして神から、自分が苦しめられている事を。
16:7 まことに神は今わたしを疲れさせた。彼はわたしのやからをことごとく荒した。
16:8 彼はわたしを、しわ寄らせた。これがわたしに対する証拠である。またわたしのやせ衰えた姿が立って、わたしを攻め、/わたしの顔にむかって証明する。
彼は、自分に今ありありと現れている、このやつれ果てた自分の外見が、その証拠だ、と主に申し上げる。
16:9 彼は怒ってわたしをかき裂き、わたしを憎み、/わたしに向かって歯をかみ鳴らした。わたしの敵は目を鋭くして、わたしを攻める。
16:10 人々はわたしに向かって口を張り、/侮ってわたしのほおを打ち、/ともに集まってわたしを攻める。
16:11 神はわたしをよこしまな者に渡し、/悪人の手に投げいれられる。
16:12 わたしは安らかであったのに、/彼はわたしを切り裂き、/首を捕えて、わたしを打ち砕き、/わたしを立てて的とされた。
16:13 その射手はわたしを囲む。彼は無慈悲にもわたしの腰を射通し、/わたしの肝を地に流れ出させられる。
16:14 彼はわたしを打ち破って、破れに破れを加え、/勇士のようにわたしに、はせかかられる。
16:15 わたしは荒布を膚に縫いつけ、/わたしの角をちりに伏せた。
16:16 わたしの顔は泣いて赤くなり、/わたしのまぶたには深いやみがある。
ヨブは、神から敵対され、友人達から敵対され、もはや自分には何の助けも見いだせない事を告白し、絶望の暗闇に閉じ込められた心情を神に吐露している。
それでもヨブは、自分の潔白を主張する。
16:17 しかし、わたしの手には暴虐がなく、/わたしの祈は清い。
16:18 地よ、わたしの血をおおってくれるな。わたしの叫びに、休む所を得させるな。
血は、叫ぶ。義人アベルの血が神に叫んだように。
ヨブは、たとえ自分が死んだとしても、その血が覆われる事がないように、すなわち、自分の血がずっと潔白を叫び続けるように、と願う。
このように、神から捨てられ、人から捨てられ、ただ絶望しかない状況に追い込まれた、と感じているヨブは、驚くべき告白をする。
16:19 見よ、今でもわたしの証人(エド:証人、記録者)は天にある。わたしのために保証してくれる者は高い所にある。
16:20 わたしの友はわたしをあざける、/しかしわたしの目は神に向かって涙を注ぐ。
16:21 どうか彼が人のために神と弁論し、/人とその友との間をさばいてくれるように。
ヨブは、彼を見ておられ、彼を記録し、彼を保証しておられるお方の存在を告白しており、そしてその方が、自分と神との間に立って弁論してくださるように、と願っている。
さらに彼は、17:3においても、「どうか、あなた自ら保証となられるように。ほかにだれがわたしのために保証となってくれる者があろうか。」と言っている。
神と人との間に仲保者は、唯一、キリストであるが、ヨブはキリストを知らないはずである。
一体どうして、彼は、このような仲保者の存在をはっきりと告白し、願う事が出来たのだろう。
旧約において、アブラハムは自分達を導いて下さる御使いがいた事を意識しており(創世記24:7)、ダビデも、自分の前にはいつも主がおられた事を意識しており、それ故彼は揺るがず、心は楽しみ、望みがある事を喜んだ。
使徒2:25 ダビデはこの方について、こう言っています。『私はいつも、自分の目の前に主を見ていた。主は、私が動かされないように、私の右におられるからである。
モーセも、荒野で、彼らについて来た岩、すなわちキリストを意識し(1コリント10:4)、モーセの後に現れる指導者を預言した。
イザヤも、とりなして下さるキリストを預言した。(イザヤ53:12)
このように、旧約の信仰者達は、聖霊によってキリストを知り、意識し、預言したのである。
ヨブがはっきりと自分の保証となって下さるお方を告白しているからには、彼もまた、霊的に、そのお方の存在をさとったのかもしれない。
いずれにせよ、今、はっきりしている事は、私達には確かに、おられるのだ!
私達を神の御前で弁護し、保証して下さる御方、イエス・キリストが。
ローマ8:33 だれが、神の選ばれた者たちを訴えるのか。神は彼らを義とされるのである。
8:34 だれが、わたしたちを罪に定めるのか。キリスト・イエスは、死んで、否、よみがえって、神の右に座し、また、わたしたちのためにとりなして下さるのである。
私達の身代わりに死んで下さった方、そして、よみがえって下さった方・キリストが、私達のために、とりなして下さる。
のみならず、聖霊も言いようのない深いうめきによって、とりなしておられる。
ローマ8:26 御霊もまた同じように、弱いわたしを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉にあらわせない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。
8:27 そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。
このように私達は、御子にとりなされ、御霊にとりなされ、そうして父なる神のみ前に大胆に進み出る事が出来、さばきにあう事がなく、永遠に生きるのである。
そして、キリストに繋がれたその”つながり”は、世の何者も奪う事が出来ない。
8:35 だれが、キリストの愛からわたしたちを離れさせるのか。患難か、苦悩か、迫害か、飢えか、裸か、危難か、剣か。
8:36 「わたしたちはあなたのために終日、/死に定められており、/ほふられる羊のように見られている」/と書いてあるとおりである。
8:37 しかし、わたしたちを愛して下さったかたによって、わたしたちは、これらすべての事において勝ち得て余りがある。
8:38 わたしは確信する。死も生も、天使も支配者も、現在のものも将来のものも、力あるものも、
8:39 高いものも深いものも、その他どんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスにおける神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのである。
ヨブは、神から捨てられ人から捨てられたように思えた時、自分をとりなし弁論して下さるお方を叫んだが、私達にはいつでも仲保者キリストに助けを求める事が出来る。
私達が彼と共に歩むなら、彼があらゆる悪魔サタンの訴えから弁護し、私達の罪は覆われ、そのように救われた状態・祝福の状態のうちに、この世の旅路を歩んで行けるのである。