メッセージ - 邪悪な時代の中に輝く、尊厳ある(ハイルな)男と女(ルツ4:1-8)
邪悪な時代の中に輝く、尊厳ある(ハイルな)男と女(ルツ4:1-8)
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ルツ記3章は、いわばルツの「婚活」の場面であるが、その「婚活」は、現代の婚活とは、全く逆のアプローチである。
現代の婚活は、いかに自分が提示する条件に合った、自分好みの相手を見つけ、折り合いをつけ、あるいは妥協しつつ結婚するか、という、いわば自分主体の活動であるが、このルツとボアズという栄光の家系の婚活は、全くその逆で、自分好み・自分主体は一切なく、信仰の先輩のアドバイス主体、そして、御言葉主体である。
ルツは自分の好む事を退け、御言葉に適った相手であるボアズへ求婚したゆえに、ボアズから「しっかりした女(エシェット・ハイル:尊厳ある女 箴言31:10、12:4)」と言われる栄誉を受けた。
ボアズもまた、御言葉主体に歩んだゆえ、尊厳ある有力な男(イシュ・ギボル・ハイル:ルツ記2:1)として、当時、名を馳せた。
邪悪な価値観がはびこる士師記の時勢において、しっかりした信仰を育み、ダビデへと、そしてキリストへとつなぐ栄光の家系の基を築いた「エシェットな(尊厳ある)」男女、ボアズ・ルツのあり方を学びたい。
4:1 ボアズは町の門のところへ上っていって、そこにすわった。すると、さきにボアズが言った親戚の人が通り過ぎようとしたので、ボアズはその人に言った、「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください」。彼はきてすわった。
ボアズはルツの願いを叶える手続きをするために、町の門の所へ行った。
当時、町の門の所は、重要な取引や裁判などが行われる場所である。
日本語の聖書では「友よ、こちらへきて、ここにおすわりください」と訳されているが、原文は、「そこの君、こちらに来て、そこに座りなさい」というように、目上の人が目下の人に指示するような感じである。
だから、ボアズはその親戚より目上で、しかも彼は町の長老10人を呼んで座らせる程の有力者だった事が伺える。
4:2 ボアズはまた町の長老十人を招いて言った、「ここにおすわりください」。彼らがすわった時、
4:3 ボアズは親戚の人に言った、「モアブの地から帰ってきたナオミは、われわれの親族エリメレクの地所を売ろうとしています。
ボアズは人々の前で、堂々と手順を踏んだ。
有力者たる人のたしなみは、正当な手順を踏みつつ、人々の前で堂々と物事を行う人である。
物事には、手順がある。集団で物事を行う手順、契約を結ぶ手順、男女関係における手順など。
そうした手順を、正当に踏んで行うなら、誰にも非難されるところは無く、人々から祝福を受けつつ人生を送るのだが、為すべき手順を面倒くさがったり、ないがしろにするような人は、いつまでも人から認められなかったり、重要な事が任せられなかったりする。
4:4 それでわたしはそのことをあなたに知らせて、ここにすわっている人々と、民の長老たちの前で、それを買いなさいと、あなたに言おうと思いました。もし、あなたが、それをあがなおうと思われるならば、あがなってください。しかし、あなたがそれをあがなわないならば、わたしにそう言って知らせてください。それをあがなう人は、あなたのほかにはなく、わたしはあなたの次ですから」。彼は言った、「わたしがあがないましょう」。
もし、このボアズよりも買い戻しの責任が重い親類、名前が無いので仮にAさんとすると、このAさんの存在をルツはもともと知らず、またAさんもルツを知らなかっただろう。
もし彼が買い戻すとなると、ルツ・ボアズ・ナオミが願っていた結果とは、かなり違ってしまう。
しかしボアズは、淡々と律法の決まり事を、そのとおり言う。
4:5 そこでボアズは言った、「あなたがナオミの手からその地所を買う時には、死んだ者の妻であったモアブの女ルツをも買って、死んだ者の名を起してその嗣業を伝えなければなりません」。
4:6 その親戚の人は言った、「それでは、わたしにはあがなうことができません。そんなことをすれば自分の嗣業をそこないます。あなたがわたしに代って、自分であがなってください。わたしはあがなうことができませんから」。
その人は、ルツをも買い戻さなくてはならない、と聞いた途端、及び腰になった。なぜなら、「そんなことをすれば自分の嗣業(相続地)をそこない」かねないからである。
買戻しの話とは、買戻す側にとっては、デメリットしか無いような話である。
なぜなら、落ちぶれてしまった親類の畑を買い戻す時、その畑は自分のものとはならないし、死んでしまった人の妻をめとって、その最初に生まれた男子に死んでしまった親類の名を継がせ、さらに、その買い戻した畑は、買い戻した人のものにはならずに、その子のものとなる。
そして、もし、男子が一人しか生まれないとするなら、Aさんが心配する通り、自分の相続地をそこなう事になりかねないのだ。
それで彼は、「わたしはあがなうことができませんから」と言ったのだ。
神の民の間において、すなわち、現代の私達・教会の中において、絶えてしまいそうな兄弟姉妹を支えるのは、栄誉ある働きである。
しかし、支えるためには力量や富、そして、精神的ゆとりが必要である。
それが無い人が、心に憂いを覚えつつ、やせ我慢して、本当はしたくないのだけれども、心に鞭打って、助けのわざをしようとするのは、健全ではない。
このAさんのように、より助ける力のある人へとゆずるのが、全ての人にとって、良いのである。
4:7 むかしイスラエルでは、物をあがなう事と、権利の譲渡について、万事を決定する時のならわしはこうであった。すなわち、その人は、自分のくつを脱いで、相手の人に渡した。これがイスラエルでの証明の方法であった。
4:8 そこで親戚の人がボアズにむかい「あなたが自分であがないなさい」と言って、そのくつを脱いだので、
足のくつを脱いで、相手に渡す。それは、自分が足の下に置く権利を相手に明け渡す象徴的な行為である。
Aさんは、それをボアズへと渡した。
こうして、当初の彼らの願いどおりの事が、公の門前で、成就した。
イエス様こそ、私達を真に買い戻す力のある御方である。
人間の男性は、せっかく家を支えようとして、愛をもって、家族のために心身を捧げる素晴らしい夫であるとしても、弱さや病、死によって、完全に支えきれない事がつきものである。
しかし、イエス様は、死がなく、罪もなく、完全に私達を支えて下さる、まことの大祭司である。
ヘブル7:22 このようにして、イエスは更にすぐれた契約の保証となられたのである。
7:23 かつ、死ということがあるために、務を続けることができないので、多くの人々が祭司に立てられるのである。
7:24 しかし彼は、永遠にいますかたであるので、変らない祭司の務を持ちつづけておられるのである。
7:25 そこでまた、彼は、いつも生きていて彼らのためにとりなしておられるので、彼によって神に来る人々を、いつも救うことができるのである。
7:26 このように、聖にして、悪も汚れもなく、罪人とは区別され、かつ、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとってふさわしいかたである。
7:27 彼は、ほかの大祭司のように、まず自分の罪のため、次に民の罪のために、日々、いけにえをささげる必要はない。なぜなら、自分をささげて、一度だけ、それをされたからである。
7:28 律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。
私達はたとえ不完全な人間であったとしても、このボアズとルツのように、邪悪な時代の中にあっても尊厳ある(ハイルな)男、女となる事を目指し、キリストにあって家を建て、仕事を建て、この闇の時代において有力者となって行くものでありたい。