メッセージ - 誰に浸し込まれるか(使徒19:1-10)
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韓国語通訳有
エペソでは、アポロが既にイエスの事を詳しく語り、イエスが救い主である事を明示してユダヤ人を論破していたが、ヨハネのバプテスマしか知らなかった。
パウロがエペソに下って来た時「信仰に入った時、聖霊を受けたのですか」とわざわざ聞いたのは、エペソの兄弟姉妹たちから聖霊の香りを感じなかったからである。
イエスが救い主である事を頭で知っていても聖霊を知らない者はいるし、聖霊は昔働いていても今は働きは終わっていると言う者達さえいる。
ヨハネのバプテスマとイエスの名によるバプテスマとはどう違い、また、聖霊のあるなしではどれほど違うのだろうか。
結構当たり前すぎて、逆にないがしろにされている所である。
バプテスマは元来「浸し込む」という意味で、ヨハネは水の中へ浸し込むが、イエスは聖霊と火の中へと浸し込ませて下さる。(マタイ3:11)
水のバプテスマは、罪を赦していただくため、人は必ず死ぬという「死」に浸しこまれる。
そこで終わっているクリスチャンは多く、罪赦されているので死んだ後は天国に行けるとしても、ただ教会に行ったり来たり往復するだけで力が無い。
悔い改めと死のみでは、さほど魅力は無いため、エペソの兄弟姉妹もわずか12名から増える事も無く、細々と信仰生活を守るしか無かった。
主イエスキリストの名によって、聖霊へ「浸し込み」がされると、力を受け、全世界にイエスキリストの復活の証人となる。(使徒1:8)
実際弟子達も、聖霊を受ける前と後では別人かと思われる程造り変えられた。
助け主、弁護者なる聖霊が与えられる時、主が御父の内におり、私達が主の内におり、主も私達の内にいる事が私達に分かり(ヨハネ14:15-20)、もはや一人ぼっちではなく、世の何者も奪う事の出来ない平安に満たされるのである。
イエスの名によるバプテスマは、悔い改めと死の向こう側、すなわち新しいいのちへと復活するバプテスマである。
「私は何々教団に属しています」「私は誰々牧師の元で養われています」といった「人の名」に浸しこまれているだけなら、力は無く、それはたとえ人類で最も偉大と言われたバプテスマのヨハネの名に浸し込まれていても、そうである。
しかしイエスキリストの名に浸し込まれているなら、爆発的な力を受ける。
エペソの兄弟姉妹は、それまでわずか12名で細々と信仰生活を守っていたが、聖霊を受けた後、エペソの生徒達は大いに活躍し、エペソだけでなくアシア州全体に主の言葉が伝えられて行った。
いつも主イエス様の名前に浸しこまれ、聖霊に満たされ、主の御名を大胆に伝えていく皆さんでありますように。
主イエス・キリストの名前によって祝福します!