メッセージ - 主から用いられやすい人となるために(1コリント13章)
主から用いられやすい人となるために(1コリント13章)
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週報/メッセージ(説教)概要
ここ数週間、聖霊について学ばされている。聖霊に満たされた人は、力を受け、イエス・キリストの強力な証人となり、働くべき場が、自分の生活ステージ周辺から、外へと大きく広がり、地の果てにまで至っていく。
今回、どのような人が、主から用いられやすく、働きの場が速やかに広がって行くのかを学びたい。
『また舌のようなものが炎のように分れて現れ、一人一人の上に留まった。すると一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、色々の「他国の言葉(ヘテロス・グロッサ:異なる舌)」で語り出した。』(使徒2:3-4)
聖霊に満たされた人の最たる特徴は、「舌」が変わる事である。それまで人間同士で、肉欲に属する言葉で話していた舌が変わり、「神の国の大いなる事」を語りだすようになる(11節)。聖霊はイエス・キリストを栄光化する霊であり、聖霊に満たされた人の特徴は、神の国を拡大して行く事である。それとは反対の人、肉欲の中を生きる人や、悪魔サタンの特徴は、高慢、自己栄光化である。(イザヤ14:12-15)
そもそも、なぜ世界にはこんなにも多くの言語が存在するのか。元を辿って行けば、バベルの塔の事件に行き着く。バベルの王・ニムロデは、主の「前に(パニーム:敵対する)」「狩猟する者(ツァイード:追跡者)」であった(創世記10:9)。彼は人のいのちを追跡し、力で制圧してのし上がった最初の王である。彼がバベルの塔を建てた動機は、人を一つに束ね、名を上げ、神のように高くなる事だった(創世記11章)。
そこで神は「われわれは下って行って、そこで彼らの言葉を乱し、互に言葉が通じないようにしよう」(11:7)と、三位一体の神が彼らに敵対し、言語はバラバラになった。高慢・自己栄光化の実は、分裂・分散である。
対して、主に有用に用いられる「御霊の人」が結ぶ実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制である(ガラテヤ5:22-23)。これらの実を結んでいるかどうかで、有用な働き人かどうか分かる。
その中で最も優れた道は、愛である(第一コリント13章)。それは御霊のどんな賜物より遥かに優れている。
クリスチャンの中には、確かに「すごい」と思える人は、いる。霊的な、超自然的な力を持っている人が。
しかし、その「すごさ」を持っている事と、主に大いに用いられる器かどうかは、別の話である。賜物は無償で頂いた贈り物であって、本人自身が自慢できる事ではない。むしろ重要なのは、愛があるかどうかだ。
もし愛が無いなら、それらはやかましいどら、「うるさい(アララゾー)」シンバルである。(1コリント13:1)
アララゾーとは元々、「アララー!」と大声で叫ぶ鬨の声の擬音で、やかましく喚きちらす事の意味だ。
愛が無い人は、不寛容であり、不親切であり、よく妬む。高慢であり、自慢し、礼儀に反する事をし、自分の利益を求め、怒りに任せ、人のした悪を勘定し、不正を喜び、真理を喜ばない。いかに預言の言葉を語っても、あらゆる奥義や、あらゆる知識とに通じていたとしても、また、山を動かす程の完全な信仰を持っていたとしても、愛がないなら、それらはむしろやかましい、すぐにでも止めて欲しい騒音へと堕してしまう。
自分の言動に気をつけている人こそ、有名人になったら長続きする。同様に、寛容であろう、謙虚であろう、礼儀正しくあろう、と、努力し続ける人こそ、速やかに主に用いられる。言動に無頓着であるとするなら、すぐ人に、サタンに、責められてしまう口実を得させてしまい、活躍のステージから引き降ろされてしまう。
言動に気を配り続ける人こそ、主に用いられる事が長続きする。だから、よくよく気をつけるべきである。
ペテロはペンテコステ以前、くちびるが回りすぎて過ちを犯す人だった。変貌山においても、あの鶏が啼いた晩においても(マルコ9:6、14:29-72)。しかし聖霊の炎が留まった時、彼のくちびるは変えられた。
預言者イザヤも、そうだった。彼は主の栄光を見せられた時、特に「くちびるが汚れている」事で絶望した。
しかし彼のくちびるは祭壇の炭火によって清められ、そうして預言するに値する者となった。(イザヤ6章)
聖霊によって、くちびるが清められないなら、大いに用いられる事はない。祭司は、栄光と美を表す聖なる装束を着て、はじめて任職の油が注がれる(出エジプト記28章)。ペテロもかつてはくちびるが回り過ぎて過ちを犯してしまっていたが、聖なる炎によって清められたその日、彼の説教で3000人が救われた。
主はこの時代、くちびるがきよい人、用いられるべき器が、少ない、と、嘆いておられるのではなかろうか。
私達は「用いられますように」と祈る前に、人を傷つけたり、言ってはならない言葉を滑らせたりする口が、聖なる火によって清められるように、祈り求めるべきだ。そしてくちびるにおいても、行いにおいても、よく気をつけ、御霊の実である愛がしたたるような者となって、主から大いに用いられる皆さんでありますように!