メッセージ - 低レベルな言い争いの土俵へと飛び込んでしまったヨブ(ヨブ記27章)
低レベルな言い争いの土俵へと飛び込んでしまったヨブ(ヨブ記27章)
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27:1 ヨブはまた言葉(マーシャール:ことわざ、箴言)をついで言った、
ヨブ記の今までのパターンからすれば、この章は、ナアマ人ツォファルの出番となるはずである。
しかし、この章から31章までは、ずっと、ヨブが彼の「ことわざ(マーシャール)」を、怒涛のように吐き出し続ける事となる。
やはり友人たちの浅はかな、人間由来の知恵の押し付けに、そして何より、友人の最後の言葉、「うじのような人、/虫のような人の子はなおさらである」(25:6)に、ついに怒りを爆発させたのだろう。
25章が、わずか6節で終わってしまったのは、もしかすると、「うじのような人・・・」の言葉に、ヨブが怒りのあまり、言葉を遮ったからなのかもしれない。
27:2 「神は生きておられる。彼はわたしの義を奪い去られた。全能者はわたしの魂を悩まされた。
ヨブは、神は生きておられる、と言った。
「主は生きておられる」とは、ユダヤ人が「これから自分が言う事は真実です」というような時に用いる表現で、ダビデ以降よく用いられていく言葉だが、ヨブは神を「自分の義を奪い去り、悩まされたお方」として表現している。
ひねくれた言い方、といえるかもしれないが、それでもヨブの神に追求していこうとする心、神と論じ合おうという志が現れている。
27:3 わたしの息がわたしのうちにあり、/神の息がわたしの鼻にある間、
27:4 わたしのくちびるは不義を言わない、/わたしの舌は偽りを語らない。
ヨブは、神の息が自分の鼻にあり、そして、その間は自分は正しい、と自認している。
そして彼は、言い放つ。
27:5 わたしは断じて、あなたがたを正しいとは認めない。わたしは死ぬまで、潔白を主張してやめない。
27:6 わたしは堅くわが義を保って捨てない。わたしは今まで一日も心に責められた事がない。
ヨブは、断じて、友人たちを正しいと認めず、しかも、死ぬまで自分の潔白を主張して止めない、と言い放った。
そして、自分は義である、という主張をはじめる。
せっかくそれまで、自分の義を全面に主張する所から離れ、むしろ、自分の保証となって下さる方を求め、とりなして下さる方、購って下さる方を拠り所とし始めていたのに。
それなのに、この章では、再び「自分の義」を主張する事に戻ってしまった。
信仰がバックスライドしてしまった感じである。
ヨブが主張している自分の義、すなわち人間の義は、いかにヨブのように正しい事を貫いてきた者であれど、汚れた衣のようでしかない。(イザヤ64:6)
義人はいない。ひとりも、いない。
だからこそヨブはかつて、自分の保証となって下さる方を求め、神にとりなして下さる方を求め、神と論じ合おうとしていた。
それなのに、彼の祈るくちびる(たとえそれが激しい口調であっても)を止めて、友人たちのほうこそ間違っている、という、激しい糾弾のためにそのくちびるを用いるようになってしまう。
27:7 どうか、わたしの敵は悪人のようになり、/わたしに逆らう者は/不義なる者のようになるように。
27:8 神が彼を断ち、その魂を抜きとられるとき、/神を信じない者になんの望みがあろう。
27:9 災が彼に臨むとき、/神はその叫びを聞かれるであろうか。
27:10 彼は全能者を喜ぶであろうか、/常に神を呼ぶであろうか。
27:11 わたしは神のみ手についてあなたがたに教え、/全能者と共にあるものを隠すことをしない。
27:12 見よ、あなたがたは皆みずからこれを見た、/それなのに、どうしてむなしい者となったのか。
27:13 これは悪人の神から受ける分、/圧制者の全能者から受ける嗣業である。
27:14 その子らがふえればつるぎに渡され、/その子孫は食物に飽きることがない。
27:15 その生き残った者は疫病で死んで埋められ、/そのやもめらは泣き悲しむことをしない。
27:16 たとい彼は銀をちりのように積み、/衣服を土のように備えても、
27:17 その備えるものは正しい人がこれを着、/その銀は罪なき者が分かち取るであろう。
27:18 彼の建てる家は、くもの巣のようであり、/番人の造る小屋のようである。
27:19 彼は富める身で寝ても、再び富むことがなく、/目を開けばその富はない。
27:20 恐ろしい事が大水のように彼を襲い、/夜はつむじ風が彼を奪い去る。
27:21 東風が彼を揚げると、彼は去り、/彼をその所から吹き払う。
27:22 それは彼を投げつけて、あわれむことなく、/彼はその力からのがれようと、もがく。
27:23 それは彼に向かって手を鳴らし、/あざけり笑って、その所から出て行かせる。
これらは、ヨブの言葉というより、あたかも、友人たちの側の言葉のようである。
だから、学者の中には、ここがナアマ人ツォファルの言葉ではないか、する人もいる。
しかし12節で「あなたがたは皆みずからこれを見た」と言っているので、一人で3人を相手にしているヨブの側の言葉、と見るほうが妥当だろう。
ヨブは、友人たちの言ってきた悪人必罰の言葉をもって、友人たちこそ悪人であり、必罰を受ける、と、糾弾をしているかのようである。
つまりヨブは、怒りのあまり、神との論じ合いという高尚な土俵を降りて、人間同士で糾弾し合う低レベルな土俵へと降りて行ってしまったのだ。
パウロはコリントの聖徒があまりに低レベルな視点でパウロを批判しているので、彼らの土俵に降りていって、愚か者ののような自慢話をしなければならなかったが、そのような高尚な動機ではなく、単に、怒ったからだ。
人の怒りは、神の義を実現しない。
せっかく、自分を弁護して下さる方、購って下さる方へと、望みを置き始めていたヨブ。なんで、こんなに、ひねくれてしまったのか。
もし、ある親が、子供が風邪をひいた時に、「どうして風邪なんか引くの!」と言って打ち叩くだけで、何の看病もしないなら、ひねくれてしまわないだろうか。
ヨブの友人たちがしたのは、そのような事だったのだ。
ヨブはかつて、言った。
19:21 わが友よ、「わたしをあわれめ、わたしをあわれめ(ハヌイ!ハヌイ!)」、/神のみ手がわたしを打ったからである。
ヨブにとって本当に必要なものは、罪定めではなく、憐れみだった。
しかし、友人たちがあまりに罪定めをして、愛の無い格言ばかり言ってきたために、ついに、ここまでなってしまったのではないだろうか。
愛の無い知識の言葉、異言、預言、奉仕は、やかましいどらや、うるさいシンバルであり(1コリント13:1-3)、あまりにやかましく付き纏いすぎるなら、せっかく立ち直ろうとしている人を絶望させ、不義へと引きずり落としてしまう。
私達は、傷ついた魂と接する時、よく気をつけて、御霊によって精錬された愛の言葉を語るべきである。