メッセージ - ヨブの鉄壁な「自己義主張」(ヨブ記31章)
ヨブの鉄壁な「自己義主張」(ヨブ記31章)
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ヨブ記31章は、ヨブの最後の弁論であるが、彼は、自分がいかに潔白であるのかという主張を、40節にわたって並べ立てる事によって、その弁論を終える。
この章において、彼は”十数の罪を挙げ,その一つ一つについて,自分がもしそんなことをしたことがあるのなら,しかるべき罰を受けてもよいと言う.これは一種の誓いである.その罪は,姦淫から,偽り,不正,盗み,弱い者の軽視,偶像礼拝やのろいに及び,行った罪ばかりでなく,慈善を怠ったことや,心の中の情欲や敵意まで問題としている.山上の垂訓にも通じる最高の道徳水準である.そして,もし自分を訴える者があれば,その告訴状を掲げて堂々と神の前に出たいと言う.神が無実を証明して下さると確信するからである.”(実用聖書注解より)
31:1 わたしは、わたしの目と/契約を結んだ、/どうして、おとめを慕うことができようか。
彼は目と契約を結び、目においても心においても罪を犯さないよう細心の注意を払ってきたようだ。
そして確かに、彼は他の人達よりも段違いに罪を犯さないようにして来た事だろう。
しかし彼の主張には「?」が残るものもある。
31:16 わたしがもし貧しい者の願いを退け、/やもめの目を衰えさせ、
31:17 あるいはわたしひとりで食物を食べて、/みなしごに食べさせなかったことがあるなら、
31:18 (わたしは彼の幼い時から父のように彼を育て、/またその母の胎を出たときから(ウミベテン・イミ・アンケナー:母の胎から)彼を導いた。)
ヨブは、母の胎にいた時から、やもめを養った、というのだ。
それはありえない事だ。
ヘブライ詩は、よくそのような誇張表現がなされるものだが、いずれにせよ、この章での彼の主張は、自分の義を過大に誇張する所がある事は明らかである。
万が一、たとえ、彼が本当に母の胎にいた時から善行を行っていた、と譲ったとして、果たして彼はそれで義を主張できるのだろうか?
その答えは残念ながら、NOである。
ローマ書に「義人はいない、ひとりもいない」(3:10)と書いてあるが、さらに、次のようにも書いてある。
ローマ3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられないからである。律法によっては、罪の自覚が生じるのみである。
つまり、全律法613の決まりごとのうち、365の「してはならない」と、248の「しなさい」のチェックリストを、全部クリアしたところで、人は、義と認められない。
「律法を行うことによっては、すべての人間は神の前に義とせられない」と書いてある通りだ。
なぜなら、完全であり、聖であり、義であられる神の前に、人が罪を犯さなかった所で、それは当然であり、また義を行ったからと言って、それもまた神の前に当然だからだ。
では、人は何によって義とされるのか。
それは、続く節に書いてある。
ローマ3:21 しかし今や、神の義が、律法とは別に、しかも律法と預言者とによってあかしされて、現された。
3:22 それは、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、すべて信じる人に与えられるものである。そこにはなんらの差別もない。
3:23 すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており、
3:24 彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである。
人はただ、神の恵みにより、購って下さるお方にの購いのわざを通してのみ、義とされるのだ。
だから、ヨブのように自分が義を行って来た事・悪を行わなかった事を主張して、自分を正しいとする事には、何の意味も無いどころか、むしろ神の義から遠ざかる行為である。
次のように書いてある。
ルカ18:9 自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10 「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11 パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。
18:12 わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13 ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるし(ヒラスコマイ:憐れむ、贖う)ください』と。
18:14 あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
ヨブは、自分が他の人のような罪人でないと主張し、また、あの罪この罪を犯してきた人間のようでない事も主張しているが、まさに、このパリサイ人の罠に陥っているわけだ。
イエス様は「おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」と言われたが、まさにヨブは高ぶったゆえに、38章以降で神から徹底的に低くされる事になる。
このたとえの中の取税人は、『神様、罪人のわたしをおゆるし(ヒラスコマイ:憐れむ、贖う)ください』と求めた。
ヒラスコマイ。この派生語にヒラステリオンがある。ヒラステリオンは「贖罪蓋」、すなわち、契約の箱を覆う蓋である。
もし、契約の箱が蓋が無く開いたままであるなら、罪ある人間は、神の圧倒的な聖に打たれ、死んでしまう。
しかし、贖いの蓋がある故に、人は、罪はあれど打たれずに済んでいた。
かの取税人が、義とされて帰れたのは、彼がヒラスコマイ、すなわち、神の憐れみと神の贖いを求めたから、そして神が彼の願いを聞き届け、彼を購ってくださったからである。
人はただ、神に対し、愛と憐れみ、贖いを求める以外に無いのだ。
ダビデは詩篇51篇で、自分こそ罪人である事を告白し、ただ神の憐れみを求めているが、それは全くヨブと逆である。
詩篇51:1 神よ、あなたのいつくしみによって、わたしをあわれみ、あなたの豊かなあわれみによって、わたしのもろもろのとがをぬぐい去ってください。
51:2 わたしの不義をことごとく洗い去り、わたしの罪からわたしを清めてください。
51:3 わたしは自分のとがを知っています。わたしの罪はいつもわたしの前にあります。
51:4 わたしはあなたにむかい、ただあなたに罪を犯し、あなたの前に悪い事を行いました。それゆえ、あなたが宣告をお与えになるときは正しく、あなたが人をさばかれるときは誤りがありません。
ヨブは、自分には罪がない、神の前に出てぜひ討論したいものだ、とまで主張した。
それに対しダビデは、自分には罪がありありと存在するどうしようもない存在だと告白し、どうか、あなたのいつくしみによってあわれみ、豊かなあわれみによって諸々のとがを拭い去って下さい、と懇願した。
まことにダビデは、義とされた取税人の祈りを細かく祈っているわけである。
詩篇51:5 見よ、わたしは不義のなかに生れました。わたしの母は罪のうちにわたしをみごもりました。
51:6 見よ、あなたは真実を心のうちに求められます。それゆえ、わたしの隠れた心に知恵を教えてください。
51:7 ヒソプをもって、わたしを清めてください、わたしは清くなるでしょう。わたしを洗ってください、わたしは雪よりも白くなるでしょう。
51:8 わたしに喜びと楽しみとを満たし、あなたが砕いた骨を喜ばせてください。
51:9 み顔をわたしの罪から隠し、わたしの不義をことごとくぬぐい去ってください。
ヨブは、母の胎にいた時から自分は義の行いをしていた、と主張した。
それに対しダビデは真逆で、自分は、母の胎にいた時から、既に蠢く罪を宿していた、と告白した。
そうである。母の胎にいた時から義人だった人間など、イエス・キリスト以外には存在しない。
ダビデは正直に告白した故に、彼が犯した罪ゆえに苦々しい刈り取りをする事となったものの、主のあわれみを受けたのだ。
詩篇51:17 神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。
ヨブは散々な災いにあっても、なお心砕かれず頑として自分の義を主張した。
結局、神に受け入れられるいけにえは、砕かれたたましい、悔いた心である。