メッセージ - エリフの登場(ヨブ記32章)
エリフの登場(ヨブ記32章)
Youtube動画
メッセージ音声
____________
31:40b ヨブの言葉は終った。
32:1 このようにヨブが自分の正しいことを主張したので、これら三人の者はヨブに答えるのをやめた。
ヨブも、友人たちも、言葉を終えた所で、一人の若者が声を上げる事になる。エリフという若者である。
4章から31章までの間、長きに渡って、ヨブと3人の友人たちの弁論で埋め尽くされいたが、32章から37章までは彼の弁論に入る。
エリフの名前はヘブル語で「彼は私の神」という意味であり、彼はこの以前も、また以後も、彼の存在を伺わせる記述が一切なく唐突に現れるため、このエリフの弁論は、後代に追加されたのではないかと言う学者も多くいる程であるが、それはギリシア思考的な解釈である。
なぜエリフが突然現れ言葉を語りだしたのか。記されているからには、神の意図がある。私達はそれを探って行きたい。
32:2 その時ラム族のブズびとバラケルの子エリフは怒りを起した。すなわちヨブが神よりも自分の正しいことを主張するので、彼はヨブに向かって怒りを起した。
32:3 またヨブの三人の友がヨブを罪ありとしながら、答える言葉がなかったので、エリフは彼らにむかっても怒りを起した。
32:4 エリフは彼らが皆、自分よりも年長者であったので、ヨブに物言うことをひかえて待っていたが、
32:5 ここにエリフは三人の口に答える言葉のないのを見て怒りを起した。
エリフが声を上げた動機は、怒りであった。
彼はまずヨブに向かって怒りを燃やし、3人の友人たちにも怒りを燃やすのだが、ヨブに対して怒った理由は、ヨブが神よりも自分を正しいとしたから、また、友人たちに対して怒りを燃やした理由は、彼らがヨブを罪ありとしながら答える言葉が無くなり、ヨブを「罪あり」として論破できなかったからだ。
ヨブ記全体は、崇高な言葉に満ちているようでも「怒り」と「罪さだめ」に溢れているような、荒んだ雰囲気であるが、エリフの言葉はそれにさらに拍車をかけている。
32:6 ブズびとバラケルの子エリフは答えて言った、/「わたしは年若く、あなたがたは年老いている。それゆえ、わたしははばかって、/わたしの意見を述べることをあえてしなかった。
32:7 わたしは思った、『日を重ねた者が語るべきだ、/年を積んだ者が知恵を教えるべきだ』と。
エリフがそれまでずっと鳴りを潜めていたのは、年長者を敬い、彼らが言葉を発するべきだと思っていたからだ。
歳を経た人は確かに知恵がある。生きた分だけ、経験があるからだ。
しかし集団の中の最年長者が、必ずしも最も知恵深い、とは限らない。
経験によって身につく知恵は、過ぎ去っていく世の知恵であり、完全なものではないからだ。
32:8 しかし人のうちには霊があり、/全能者の息が人に悟りを与える。
32:9 老いた者、必ずしも知恵があるのではなく、/年とった者、必ずしも道理をわきまえるのではない。
32:10 ゆえにわたしは言う、『わたしに聞け、/わたしもまたわが意見を述べよう』。
確かに、人に知恵を与えるお方は、神である。
神から知恵が与えられ、歳を経た人にまさる者になる人は、どのような人か。
ダニエル1:17 この四人の者には、神は知識を与え、すべての文学と知恵にさとい者とされた。ダニエルはまたすべての幻と夢とを理解した。
神はダニエルとその友人たちに知識を与え、全ての文学を悟る力と知恵を与えてくださったが、彼らは世の食物、汚れた食物によって自分自身を汚すまいと心に定め、いのちの危険を顧みずに、神に喜ばれる者として自らを清めようとした。(ダニエル1:8、3:16-18)
それだから神は彼らを知恵深い者とされ、バビロンという当時の罪深い世代の中でも栄、神は彼らを通して神の栄光をあらわされたのだ。
ダニエル2:27 ダニエルは王に答えて言った、「王が求められる秘密は、知者、法術士、博士、占い師など、これを王に示すことはできません。
2:28 しかし秘密をあらわすひとりの神が天におられます。彼は後の日に起るべき事を、ネブカデネザル王に知らされたのです。あなたの夢と、あなたが床にあって見た脳中の幻はこれです。
知恵が与えられ、神に用いられる器とは、自らをきよくする器である。
ヤコブの子ヨセフもまた、エジプトという罪深い時世の中でも、自らをきよく、正直に保った故に、後にはエジプトの総理大臣になり、イスラエルの全家族を救う事に用いられた。
32:11 見よ、わたしはあなたがたの言葉に期待し、/その知恵ある言葉に耳を傾け、/あなたがたが言うべき言葉を捜し出すのを/待っていた。
32:12 わたしはあなたがたに心をとめたが、/あなたがたのうちにヨブを言いふせる者は/ひとりもなく、/また彼の言葉に答える者はひとりもなかった。
32:13 おそらくあなたがたは言うだろう、/『われわれは知恵を見いだした、/彼に勝つことのできるのは神だけで、/人にはできない』と。
32:14 彼はその言葉をわたしに向けて言わなかった。わたしはあなたがたの言葉をもって/彼に答えることはしない。
32:15 彼らは驚いて、もはや答えることをせず、/彼らには、もはや言うべき言葉がない。
32:16 彼らは物言わず、/立ちとどまって、もはや答えるところがないので、/わたしはこれ以上待つ必要があろうか。
32:17 わたしもまたわたしの分を答え、/わたしの意見を述べよう。
32:18 わたしには言葉が満ち、/わたしのうちの霊がわたしに迫るからだ。
主の霊に導かれる者は、心の傷ついた者を癒やすもの(イザヤ書)である。
イザヤ61:1 主なる神の霊がわたしに臨んだ。これは主がわたしに油を注いで、貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、わたしをつかわして心のいためる者をいやし、捕われ人に放免を告げ、縛られている者に解放を告げ、
61:2 主の恵みの年と/われわれの神の報復の日とを告げさせ、また、すべての悲しむ者を慰め、
61:3 シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。
61:4 彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。
主なる神の霊に導かれるなら、このような実があるものだが、しかしエリフもまた「怒り」に導かれて言葉を発し、ヨブ記全体が「怒り」に溢れているような雰囲気に、さらに拍車をかけている。
32:19 見よ、わたしの心は口を開かないぶどう酒のように、/新しいぶどう酒の皮袋のように、/今にも張りさけようとしている。
32:20 わたしは語って、気を晴らし、/くちびるを開いて答えよう。
32:21 わたしはだれをもかたより見ることなく、/また何人にもへつらうことをしない。
32:22 わたしはへつらうことを知らないからだ。もしへつらうならば、わたしの造り主は直ちに/わたしを滅ぼされるであろう。
主が言葉を与えて下さる時、与えられた人は、その言葉を伝えずにはいられないものである。
預言者エレミヤもまたそうだった。
エレミヤ20:9 もしわたしが、「主のことは、重ねて言わない、このうえその名によって語る事はしない」と言えば、主の言葉がわたしの心にあって、燃える火の/わが骨のうちに閉じこめられているようで、それを押えるのに疲れはてて、耐えることができません。
ただ、エリフの言葉の全部が、神の霊から来たものであるかどうかもまた、怪しい。
彼の弁論の内容には、ヨブの言葉を果たして本当に理解しているのかどうか怪しい面もあるし、また、3人の友人達のように、彼の言葉の始終に主エホバの御名が無いからだ。
いずれにしても彼は、ヨブが神に出会うための橋渡しの役割を果たしている。
エリフの言葉から、私達も養いを得たい。