メッセージ - キリストのいのちの特権にあって歩む道(コロサイ2:6-15)
キリストのいのちの特権にあって歩む道(コロサイ2:6-15)
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週報/メッセージ(説教)概要
先週、4名の兄弟姉妹が洗礼を受け、新たに神に繋がって生きる決心をした。神に正しい良心を願い求めて洗礼を受ける時、聖霊という全く新しいセンサーが与えられ、そのナビゲーションに従って行くなら、どんどんきよくなり、聖化が進み、いのちが増し加わり、永遠のいのちへ至って行く事を、先週学んだ。
イエス様がバプテスマを受けた時、天が開け、聖霊が鳩のように降り、「これは私の愛する子。わたしはこれを喜ぶ」と、天の父からの御声があった。私達もバプテスマを受けると、イエス様が先駆けて体験されたように、天が私達に向かって開け、賜物として聖霊を受け、神に愛される子となる特権にあずかるのである。
『このように、あなた方は主キリスト・イエスを受けいれたのだから、彼にあって歩きなさい。また彼に根ざし、彼にあって建てられ、そして教えられたように、信仰が確立されて溢れるばかり感謝しなさい。』(6-7節)
主にあって生きる時、彼に在るあらゆる良い性質や、いのちに属する事、すなわち、健康や美しさ、力強さが、ますます自身の中に体現化されて行く。キリストの内にこそ神の満ち満ちたご性質が形をとって宿っているからであり、信じる者は、全ての支配と権威のかしらであるキリストに満ち満ちているからだ(9-10節)。
実際、先週洗礼を受けた聖徒から、早速、喜びの報告を頂いた。ガンかもしれない、と医者から言われていたので、MRI検査をしたのだが、結果を見た医者があまりに怪訝に首を傾げていたので、心配して聞いてみた所、あったはずの兆候が、全然無くなっていた、という事だった。待ち時間の間、洗礼時にもらった十字架を握りしめて「(ガンは)ない、ない」と何度も宣言したら、その通りになり、同席していた未信者の方も「神様のお陰だね」と言っていたという。まさに主の栄光である。
そればかりでなく、この1週間で、友人からもらったお守りの腕輪が勝手に壊れたり、以前会った人を意識では忘れていても霊では覚えていたり、また、料理をつくる思いが与えられ、それに従った所、とても喜ばれたり。まさに、新しいナビゲーションが与えられ、新しいいのちが息吹かれた事を早速、体験したのだ。
このように、主キリストにあって歩もうと意識する時、いのちに属する、あらゆる良き特権に与かれるのだ。
『キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえらされたのです。』(11-12節)
バプテスマによってキリストと共に死んだ、と書いてある。別にバプテスマを受けた瞬間に心臓が停止して死んだ訳ではなく、肉体は継続して生きている。一体何が死んだのか。次のように書いてある。
『キリスト・イエスにあずかるバプテスマを受けたわたしたちは、彼の死にあずかるバプテスマを受けたのである・・・このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである。』(ロマ6:3,11) ここにある通り、「罪に対して死んだ」のだ。
ただ先週学んだ通り、洗礼は「肉体の汚れ」を除くものではない。罪へ傾く「くせ」も、犯してきた罪々の記憶も、相変わらず脳に残ったままだ。そこで、私達の側の意思決定と、努力しなくてはならない領域がある。
『だから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従わせることをせず、また、あなたがたの肢体を不義の武器として罪にささげてはならない。むしろ、死人の中から生かされた者として、自分自身を神にささげ、自分の肢体を義の武器として神にささげるがよい。なぜなら、あなたがたは律法の下にあるのではなく、恵みの下にあるので、罪に支配されることはないからである。』(ロマ6:12-14)
「もはや罪に支配される事はない」事を、体現したいだろうか?それなら書いてある通り、それまで「罪」の方向に自分を捧げていた方向性を、神へとささげる方向へと転換し、行動して行くのだ。その期間、その人は聖霊の支配下に入り、もはや罪の支配から抜け出した状態にある。その状態を、継続して行くのだ。
もし私達がキリストに従って歩み、キリストの死と復活の中に入っているなら、彼に在るあらゆる良い性質やいのちに属する事、すなわち、健康や美しさ、力強さが、ますます体現化されて行く。その時、もはや世の支配も権威も、強制力も、全て武装解除され、さらしものとされている。なぜならその時、キリストの内にあり、私達を不利に責め立てている一切の債務証書は、十字架上に釘付けにされているからだ。(14-15節)
キリストにある私達の特権は、どんなに素晴らしいものだろう。これをますます実際に体現して行く皆さんでありますように!イエス様のお名前によって、祝福します!