メッセージ - 主の教えを喜びとする者の幸いと、悪しき道に留まり続ける者の災い(詩篇1篇)
主の教えを喜びとする者の幸いと、悪しき道に留まり続ける者の災い(詩篇1篇)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 詩篇
- 執筆 :
- pastor 2018-8-15 9:09
主の教えを喜びとする者の幸いと、悪しき道に留まり続ける者の災い(詩篇1篇)
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詩篇全体を流れるアシェルの概念について、二回に渡って学んだ。
今回は、詩篇1篇の全体から、幸いな者の道と災いな者の道とを学びたい。
1:1 悪しき者のはかりごとに歩まず、罪びとの道に立たず、あざける者の座にすわらぬ人はさいわいである。
詩篇1篇は、幸いな人(アシェルな人)と、その対極にある「悪しき者」の、両極端な双方の道が示されている。
人は何かと、自分はそんなに悪人ではない、と思っている。それは、物事を自分にとって都合よく見る、自己正当化という色眼鏡がかかっているからであり、ほとんどの人は、自分がそのような眼鏡をかけているという事さえわかっていない。
その色眼鏡がある事が分からないために、物事を正しく見る事ができず、なぜこんなに自分だけが災いにばかり遭うのか、なぜ人は自分にだけこんな態度を取るのか、という事が分からない。
この色眼鏡を取るには、どうすれば良いか。それは、絶対的に正しいものさしで、自分を測る必要がある。
その正しいものさしこそ「主のおきて」、すなわち、神の御言葉である。
だから、主のおきてを「喜び」とし、昼も夜もそのおきてを口ずさむ人こそ、真に自分を正しく測り、真に正しい道、すなわちアシェルな道が分かり、そこへと進んで行く事が出来る「幸いな人」なのである。
1:2 このような人は主のおきてをよろこび、昼も夜もそのおきてを思う。
1:3 このような人は流れのほとりに植えられた木の/時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える。
主の御言葉を「喜びとする」事が肝心である。
たとえ、御言葉を口ずさむ事を強いられて、嫌々ながらやっているとしても、その通りに守り行うなら、その祝福には与れる。
しかしそれでは、心底楽しい道とは言えない。
愛する人からの手紙は喜びをもって読むのと同じように、主を愛する愛をもって為すなら、口ずさむ事も守り行う事も喜びとなり、ますます栄えて行くものである。
人は何かと、流れのほとりに植えられた木のように、時が来ると実を結び、その葉もしぼまないように、そのなすところは皆栄える者になりたいと願うが、そうなるためのコツとして、ヨシュア記にも全く変わらない事が記されている。
ヨシュア記1:7 ただ強く、また雄々しくあって、わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法をことごとく守って行い、これを離れて右にも左にも曲ってはならない。それはすべてあなたが行くところで、勝利を得るためである。
1:8 この律法の書をあなたの口から離すことなく、昼も夜もそれを思い、そのうちにしるされていることを、ことごとく守って行わなければならない。そうするならば、あなたの道は栄え、あなたは勝利を得るであろう。
こちらにも、行く所で勝利を得るコツ、何をしても栄えるためのコツが書かれている。
すなわち、主から命じられた御言葉を、昼も夜も口ずさみ、そこに記されている事を守り行う事。
これは、何をしても栄えるための普遍的な法則なのだ。
御言葉を口ずさむ事、それがすなわち、御言葉を食べる事である。
耳や目から頭に入った言葉を、口で声に出して宣言し、自分の鼓膜を震わせ、骨を震わせ、脳に、心に、たましいに、そして霊に、行き届かせる。
それを反復すると、反復した言葉が心に、脳に、たましいに、霊に定着し、その時、完全に「食べた」という。
ごはんを食べて肉体が体験することと似た事が、御言葉を食べると起きるのだ。
人は食べる行為を、1日3回する。そうしないと元気が出ないからだ。
だから御言葉を口で宣言しないなら、霊的飢餓状態に陥ってしまう。それだから、昼も夜も、と教えられているのだ。
エレミヤも言っている。
15:16 わたしはみ言葉を与えられて、それを食べました。み言葉は、わたしに喜びとなり、心の楽しみとなりました。万軍の神、主よ、わたしは、あなたの名をもって/となえられている者です。
15:17 わたしは笑いさざめく人のつどいに/すわることなく、また喜ぶことをせず、ただひとりですわっていました。あなたの手がわたしの上にあり、あなたが憤りをもって/わたしを満たされたからです。
エレミヤは、御言葉を食べたら、それが喜びとなり、心の楽しみとなった。
その結果、「万軍の神、主の名をもってとなえられている者」(KJV: I am called by thy name, O LORD God of hosts)すなわち、「主の御名がつけられた者」となった。
主の御名がつけられ、主の御名をもって人々から呼ばれる。
それはなんと幸いな事であろう。
申命記28章に、祝福と呪いの極端な二分化が行われる様が記されているが、その分岐点は、御言葉を聞いて守り行うか、それとも、御言葉に聞かず御言葉を守り行わない、という分岐であった。
主の声によく聞き従い、御言葉を守り行うならば、神である主は諸国民の上に立たせ、町の内でも畑でも祝福され、身から生れるものも、地に産する物も、家畜の産むものは祝福され、かごもこねばちも祝福され、はいるにも出るにも祝福され、敵に対しては圧倒的に勝利し、倉にも手のすべてのわざにも祝福が下る。(申命記28:1-7)
御言葉を聞いて守り行う者には、確かにこの誰もがうらやむ祝福が与えられるが、何よりの祝福は、エレミヤが得たとおり「主の御名がつけられる事」である。
申命記28:9 もし、あなたの神、主の戒めを守り、その道を歩むならば、主は誓われたようにあなたを立てて、その聖なる民とされるであろう。
28:10 そうすれば地のすべての民は皆あなたが主の名をもって唱えられるのを見てあなたを恐れるであろう。
主の名をもって唱えられる事、それはすばらしい幸いである。
女性が男性の家へ嫁いで行く時、姓が嫁ぎ先に変わるが、私達は、イエス様の御前において全て「女」である。
もし私達が、主の御言葉を前にして自分の「やりたい」を降ろし、御言葉に記されている事のほうを選択して、御言葉の通りに「する」なら、主を「主人」としているわけであり、主に嫁いだ者、主の御名がつけられた者、主の御名で唱えられる者となり、そうなるのであれば、すなわち私達を守り養って下さる責任は、全て主へと帰属し、主の富はすべて私達も共同で相続する権利がある。
しかし、もし主の言葉より、自分の「やりたい」のほうを優先させるなら、その人は主を主人としていないわけであるから、その人は主の保護は得られず、自分の腕っぷしひとつでやっていかなければならず、主の栄光の富の相続には与れない。
その人は、水路のそばに植えられる特権に与れず、何をしても栄えず、申命記28:15節以降の全ての呪いを受ける覚悟をしなくてはならない。
1:4 悪しき者はそうでない、風の吹き去るもみがらのようだ。
1:5 それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。罪びとは正しい者のつどいに立つことができない。
1:6 主は正しい者の道を知られる。しかし、悪しき者の道は滅びる。
「悪しき者」は、KJVではungodly、すなわち、神なき者、神を神としない者である。
神を神としない者は、風が吹き飛ばすもみがらのようである。パレスチナでは今でも、実ともみ殻を振り分けるのに、風を用いているが、もみ殻は見事に吹き飛ばされ、実は蔵へおさめられる。
神を神としない者は、主の会衆の中に居続ける事が出来ない。
主の会衆が、喜んで賛美したり、祈ったり、御言葉に養われるのに、その楽しみが理解できず、むしろ心底ひまな、つまらないものとして見るからだが、もしその者が、主の会衆に害を加えるようなら、主がアカンを吹き飛ばしたように、その者は主の会衆から吹き飛ばされて行く。(ヨシュア記7章)
その様は、箴言5章にも記されている。
箴言5:3 遊女のくちびるは蜜をしたたらせ、その言葉は油よりもなめらかである。
5:4 しかしついには、彼女はにがよもぎのように苦く、もろ刃のつるぎのように鋭くなる。
5:5 その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく。
5:6 彼女はいのちの道に心をとめず、その道は人を迷わすが、彼女はそれを知らない。
箴言5章は一見すると、「女性には気をつけなさい」と男性に向けて戒めているかのように見えるが、ここは当然男性のものだけでなく、女性も含めた主の民全般に対する警告である。
なぜなら私達・主の民は、主イエス様に対しては、嫁いでいくべき花嫁ではあるが、世に対しては正しく支配し、サタンに対しては打ち負かして行くという、「男」の立ち位置だからである。
サタンは、主の民に対し、遊女のくちびるのように、甘言でたぶらかして来ようとする。
5:7 子供らよ、今わたしの言うことを聞け、わたしの口の言葉から、離れ去ってはならない。
5:8 あなたの道を彼女から遠く離し、その家の門に近づいてはならない。
主は言われる。わたしの口の言葉から離れ去ってはならない、と。
サタンの遊女のくちびるに惑わされたりして、主の御教えの外へと行ってはならない、と。
遊女のくちびるから出る言葉は甘く、楽しそうに、ラクそうに見えても、「その足は死に下り、その歩みは陰府の道におもむく」のだ。
5:9 おそらくはあなたの誉を他人にわたし、あなたの年を無慈悲な者にわたすに至る。
5:10 おそらくは他人があなたの資産によって満たされ、あなたの労苦は他人の家に行く。
主の民であるべき者が、主の教えから離れて、遊女の言葉に、すなわち世の言葉、サタンの言葉にうつつを抜かしているなら、どんどんと誉れが、資産が、労苦の実は、他人に渡されて行ってしまう。
それでもなお主の教えに帰らないなら、その人に終わりが来る。
5:11 そしてあなたの終りが来て、あなたの身と、からだが滅びるとき、泣き悲しんで、
5:12 言うであろう、「わたしは教訓をいとい、心に戒めを軽んじ、
5:13 教師の声に聞き従わず、わたしを教える者に耳を傾けず、
5:14 集まりの中、会衆のうちにあって、わたしは、破滅に陥りかけた」と。
このように、主の教え、主の御言葉から離れる人は、会衆のただ中にあって、最悪のままの状態を過ごし、それでもなお立ち返らないなら、最終的にその人は、集会から絶たれてしまう。
そのような道は心して避けて通り、主の教えを喜びとし、昼も夜も口ずさむ事によって、御言葉を毎日「食べ」、主の御名がつけられたアシェルな者としての幸いを得、そこから逸れる事の一切ない皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!