メッセージ - 祝福が倍になって流れてくるための二つの鍵(ヨブ記42:1-6)
祝福が倍になって流れてくるための二つの鍵(ヨブ記42:1-6)
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週報/メッセージ(説教)概要
ヨブ記の46回に渡る講解説教が終わった。以前のヨブ記のイメージは、何か知的で崇高な議論が展開されているな、でもあまり読みたくないな、というイメージがあったかもしれない。しかしこの中から多くの真理を発見し、大きな恵みを受けた方もいたと思う。ヨブ記全部のメッセージ概要はホームページに記したが、今回、ヨブ記の最初と最後のキアズムから、ヨブ記の結論と、2倍の祝福を受けるためのコツを探りたい。
ヨブは正しい人で、神を恐れ、悪から遠ざかっている人だった。彼の7人の息子達は、それぞれの誕生日ごとに集まって、飲み食いする事を常としていたが、一巡する毎に、ヨブは彼らを呼び寄せ、彼らの数に従って燔祭を捧げた。もしかしたら彼らが罪を犯し、心で神を呪ったかもしれない、と思ったからである。
それは一見、正しい事のように見られがちだが、罪を犯すかもしれない酒宴の場所で子供達を取り締まる事なく、その日を楽しませ、どんちゃん騒ぎの事後、犯したか犯していないか分からない「あやふや」な罪のいけにえを捧げる事でチャラにしようとしても、サタンの追求は免れられない。
もし「罪を犯したかもしれない」という不安要素があるなら、神が喜ぶ事と忌み嫌う事の何かを事前に教え、それをしないよう指導するべきだった。結局、ターゲット不明の悔い改めの乱発は、罪はこれでチャラになった、自分はもう義だ、という思い込みを助長させただけで、ヨブ自身にも、祈ってもらった息子達も、有害以外のものはもたらさなかった。後に分かるが、ヨブは、「自分は正しい」という思い込みを奥深くに助長し続け、ついには神よりも自分を義とし、3人の友人達を閉口させてしまう程までになってしまっていたのだ。
神はそれを取り扱うために、サタンの申し出を許可し、こうしてヨブは、一切のものを失ってしまう。
こうして、詩文体による長々としたヨブの訴えと、友人達の議論が始まるのだが、主エホバの御名が一切無い人間の議論は、ただ怒りと無秩序をもたらすのみである。しかしヨブが神の直接の取り扱いを受けた結果、ヨブがした「二つの事」の故に、後の人生の祝福が倍になる。膨大な文量に埋もれて見つけ難いが、災いが取り去られ祝福が倍増するコツは、実にシンプルだ。私達は、この「宝」を知らなくてはならない。
その一つは目は、ヨブが神に告白した次の告白だ。すなわち、神はどんな事でも最善を為して下さるのに自分は知りもせず、それを暗くしてしまった、だから自分は自らを捨て、悔い改めます、という告白である。
『それでわたしは「みずから恨み(マアスの未完了単数形:自らを継続して捨て続け)」、ちり灰の中で悔います」』(ヨブ記42:6) ヨブはこの時、それまでずっと握りしめて離さなかった「自分は正しい」「神の仕方は納得できない」という「自ら」を捨て去り、自分を低くした。神の御前における「善悪判断」の放棄である。
それは、無闇に思考停止する事でも、強制力に屈して洗脳を受け入れる事でもない。ヨブが2節で告白した通り、主はその全智の最善をもって全ての事を為すお方だ、それだから、御前に自分を捨てる、という、まことに理に適った、積極的な「捨て」なのだ。これこそ、祝福が流れてくる扉を開ける最初の鍵である。
祝福倍増の二つ目の鍵は、友人達のために、祭司として、神の指示の通りに執り成し祈った事である。
この友人達は、本質を外した格言の押し売りによって、ただでさえ苦しいヨブをさらに苦しめた。神はそんな彼らに、ヨブの所で燔祭を捧げ、彼に祈ってもらうよう指示した。結果、彼らの罪は赦され、同時にヨブにも祝福が帰って来た。以前は息子達のために、無闇な犠牲を捧げたが、今回は神の指示に従い、それも、自分を苦しめた者のため、赦されるよう、主に祈った。義人のとりなしによって、罪を犯した者は罰を免れる。
すなわち神は、義とされた人に、執り成し祈る事を求めておられる。神はアブラハムやモーセの執り成しを聞いて下さり、また執り成す者がいないために神が滅ぼさざるを得なかった事もある。(エゼ22:30-31)
神は、ご自分ひとりで赦しを完結されるのではなく、誰かの執り成しがあってこそ、その人を「赦す」機会を得る。だからこそ人類の贖いには、十字架上のイエス・キリストによる執り成しが必要だったのだ。
執り成し祈る者を、神は豊かな報いを与え、大いなる者として下さる。アブラハムやモーセ、ヨブのように。
ヨブ記の結末は、あっけなく見える。一体あの膨大な問題提起と議論は何だったのだろうか、と思える程。
それ故、祝福の鍵を見落としやすい。祝福の引き金は、ヨブのように、自分を低くし、御前でそそり立つ「自ら」を捨て、悔い改める事。それで義とされたなら、執り成し祈る事である。ヨブ記は人生の縮図と言える。人生の膨大な理不尽への「なぜ」追求や、自己正当化や、神と人とを訴える事を、全てを降ろし、神を高め、人のために執り成し祈る時、大きな祝福に与れる。それが、ヨブ記全体から導き出せる答である。