メッセージ - 私達が結びつけるべき赤い印(ヨシュア記2:17-21)
私達が結びつけるべき赤い印(ヨシュア記2:17-21)
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ラハブが不従順な者達と一緒に滅びる事を免れた理由は、信仰の故だった。
彼女は、イスラエルの神・主の救いを得る事の素晴らしさを、そのうわさを聞いていた時からあこがれ、いざ、その神の民が二人、彼女の前に現れた時、死を賭すリスクを犯す事さえものともせず二人をかくまい、イスラエルの神こそ天において地において絶対なる神であられる事を告白し、自分と自分の家族を救ってくれるよう、憐れみを求めた。
普通なら、憐れみを乞い求めるべきは、周囲は敵だけのこの二人の斥候の側に見える。
しかし彼女は、真理の面から見て、自分こそが、神に対し、そして神の民に対して憐れみを求めるべき者だ、という認識があったのだ。
それは、信仰によってである。
ヨシュア記2:17 ふたりの人は彼女に言った、「あなたがわれわれに誓わせたこの誓いについて、われわれは罪を犯しません。
2:18 われわれがこの地に討ち入る時、わたしたちをつりおろした窓に、この赤い糸のひもを結びつけ、またあなたの父母、兄弟、およびあなたの父の家族をみなあなたの家に集めなさい。
2:19 ひとりでも家の戸口から外へ出て、血を流されることがあれば、その責めはその人自身のこうべに帰すでしょう。われわれに罪はありません。しかしあなたの家の中にいる人に手をかけて血を流すことがあれば、その責めはわれわれのこうべに帰すでしょう。
2:20 またあなたが、われわれのこのことを他に漏らすならば、あなたがわれわれに誓わせた誓いについては、われわれに罪はありません」。
2:21 ラハブは言った、「あなたがたの仰せのとおりにいたしましょう」。こうして彼らを送り出したので、彼らは去った。そして彼女は赤いひもを窓に結んだ。
彼女は、赤い印を早速結びつけた。
これは古今東西、現代の私達にも、等しく、救いのしるしである。
出エジプト記12:3 あなたがたはイスラエルの全会衆に言いなさい、『この月の十日におのおの、その父の家ごとに小羊を取らなければならない。すなわち、一家族に小羊一頭を取らなければならない。
12:4 もし家族が少なくて一頭の小羊を食べきれないときは、家のすぐ隣の人と共に、人数に従って一頭を取り、おのおの食べるところに応じて、小羊を見計らわなければならない。
12:5 小羊は傷のないもので、一歳の雄でなければならない。羊またはやぎのうちから、これを取らなければならない。
12:6 そしてこの月の十四日まで、これを守って置き、イスラエルの会衆はみな、夕暮にこれをほふり、
12:7 その血を取り、小羊を食する家の入口の二つの柱と、かもいにそれを塗らなければならない。
12:8 そしてその夜、その肉を火に焼いて食べ、種入れぬパンと苦菜を添えて食べなければならない。
・・・
12:12 その夜わたしはエジプトの国を巡って、エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。
12:13 その血はあなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしはその血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、あなたがたを滅ぼすことはないであろう。
12:14 この日はあなたがたに記念となり、あなたがたは主の祭としてこれを守り、代々、永久の定めとしてこれを守らなければならない。
赤い印を結ぶのは、裁きの日の前日でも、滅びのラッパが吹き鳴らされる直前でも別にいいのだが、彼女は、彼らから教えられてすぐに結んだ。
「あなたの仰せのとおりに」。これこそ、苦もなく救われる人に特徴的な、主に対してよく発する言葉である。
大いなる裁きの日、赤い印を結んだ状態で、かつ、その中にいる事。それが救いの条件である。
赤い印を結びつけるか、それをしないか。それは昔も今も、救われるか、滅ぼされるかの分かれ道なのだ。
今や、キリストの血が、私達にとって救いのしるしである。
ヘブル9:14 永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。
イエス様の血は、私達の邪悪な良心をきよめ、死んだ行いを取り除き、生ける神に仕える者としてくださる。
イスラエルの民は小羊の血潮を扉のかもいと門柱に塗り、ラハブは窓に赤いひもを結びつけたが、私達はどうやったら、この赤い印を結びつける事ができるのか。
ヘブル11:30 信仰によって、エリコの城壁は、七日にわたってまわったために、くずれおちた。
11:31 信仰によって、遊女ラハブは、探りにきた者たちをおだやかに迎えたので、不従順な者どもと一緒に滅びることはなかった。
私達が、イエス様が十字架で流された血潮を、自分に結びつけるコツ、それは、信仰である。
信仰(ビヒド)の元来の意味は、?to band(結びつける)、?to unite(連合する、ユニットを組む)。
4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、「信仰によって結びつけ」られなかったからである。
4:3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。
あの時イエス様が流された血潮こそ、自分を清め、救いへと導くものだ、という言葉と意味を自分自身へと混ぜ合わせ(結びつけ)、自分はイエス様の血潮とユニットを組んだ者だとみなしつつ、日々歩んでいくのである。
それこそ、ラハブが赤いひもを窓に結んだのと同じ行動である。
ラハブは、すぐにした。同じように私達も、すぐにでも、いつでも、結び続けるべきである。
信じたなら、安息に入るのだ。
ヘブル3:12 兄弟たちよ。気をつけなさい。あなたがたの中には、あるいは、不信仰な悪い心をいだいて、生ける神から離れ去る者があるかも知れない。
3:13 あなたがたの中に、罪の惑わしに陥って、心をかたくなにする者がないように、「きょう」といううちに、日々、互に励まし合いなさい。
3:14 もし最初の確信を、最後までしっかりと持ち続けるならば、わたしたちはキリストにあずかる者となるのである。
3:15 それについて、こう言われている、/「きょう、み声を聞いたなら、/神にそむいた時のように、/あなたがたの心を、かたくなにしてはいけない」。
3:16 すると、聞いたのにそむいたのは、だれであったのか。モーセに率いられて、エジプトから出て行ったすべての人々ではなかったか。
3:17 また、四十年の間、神がいきどおられたのはだれに対してであったか。罪を犯して、その死かばねを荒野にさらした者たちに対してではなかったか。
3:18 また、神が、わたしの安息に、はいらせることはしない、と誓われたのは、だれに向かってであったか。不従順な者に向かってではなかったか。
3:19 こうして、彼らがはいることのできなかったのは、不信仰のゆえであることがわかる。
ヘブル4:1 それだから、神の安息にはいるべき約束が、まだ存続しているにかかわらず、万一にも、はいりそこなう者が、あなたがたの中から出ることがないように、注意しようではないか。
4:2 というのは、彼らと同じく、わたしたちにも福音が伝えられているのである。しかし、その聞いた御言は、彼らには無益であった。それが、聞いた者たちに、信仰によって結びつけられなかったからである。
4:3 ところが、わたしたち信じている者は、安息にはいることができる。
一度、十字架の血潮を自分自身へと結びつけたなら、それをほどいてはならない。
救いの条件は、大いなる裁きの日、赤い印を結んだ状態で、かつ、その中にいる事だった。
そこから迷い出る事なく、しっかり毎日結んだ状態をキープし、安息をキープし続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!