メッセージ - 主を「わが主」とするダビデと私達(詩篇18:1-8)
主を「わが主」とするダビデと私達(詩篇18:1-8)
Youtube動画
メッセージ音声
_______________
詩篇18篇表題: 聖歌隊の指揮者によってうたわせた主のしもべダビデの歌、すなわち主がもろもろのあだの手とサウルの手から救い出された日にダビデはこの歌の言葉を主にむかって述べて言った
18:1 わが力なる主よ、わたしはあなたを愛します。
この詩篇18篇は、第二サムエル記22章とほぼ内容が同じである。
この第二サムエル記22章の前後には、ダビデの人生の総まとめ的な記述が記されており、すぐ後の23章には、ダビデの最後の言葉も記されている。
ダビデ記と言っても良いサムエル記が終わろうとしているこの箇所の、ダビデの人生の総まとめ的な場面で、数多あるダビデ作の詩篇の中から、唯一抜擢されたこの詩篇18篇は、まさに、ダビデの人生全体を表す象徴的な詩と言って良いだろう。
ダビデは、サウルの他、内から外から迫り来る敵と相対する都度、彼は主に助けを求め、主はその都度、助けて下さった。
彼の人生の諸々の場面場面で助けて下さった主が、どのようなお方であるか、ダビデは次のように多用に表現している。
18:2 主はわが岩、わが城、わたしを救う者、わが神、わが寄り頼む岩、わが盾、わが救の角、わが高きやぐらです。
ダビデがサウルの手から救われたのは、彼が三十歳の時だった。しかしそれ以降、彼の王としての四十年間も、「もろもろの敵」が彼の前に立ちはだかった。
ペリシテ人などの外敵はもちろん、自国民から沸き起こる政敵、親しい友や肉親からの突然の敵対もあったし、そして悪魔からの誘惑もあった。
それら、内から外から迫り来る敵と相対する都度、彼は主に助けを求めた。そして主は、その都度、助けて下さった。
ダビデの人生の中で、様々な敵が立ちはだかる都度、彼は主を土台石とし、城とし、あるいは盾とし、そのように、主により頼む事と主から助けをいただく事とを繰り返して行った。
そして彼は、これら一つ一つの主のご性質に、「わが・・・」「わたしの・・・」と、彼自身の主とのプライベートな関係を宣言している。
しかしこの、主が「わが岩」「わが救い」である事は、何も、ダビデだけの専売特許ではない。
「わたしのもの」という宣言を私達もするなら、主のそれらのご性質は私達のものとなり、そして主は、「わたしの主」「わたしの神」となって下さる。
トマスは、自分の頑なさや不信仰の深みにあった時、イエス様は天を押し曲げて降りて来てくださり、彼に直接関わって下さった。
信じないトマスに現れ、あの痛々しい十字架の釘跡が空いた御手を差し伸べ、「あなたの指をここに差し入れなさい」と言って下さった。
それで彼は「わたしの主、わたしの神」とイエス様に答えた。(ヨハネ20:28)
一体主は、幾千、幾万、幾億の、救いを求める人々に、個人的に現れてくださり、彼らを救ってくださり、なんと多くの人々が、イエス様を「わたしの主、わたしの神」と呼んだだろうか。
やがて後に、彼らは、ダビデやトマスの他、あらゆる「わたしの主」と告白した者達と共に、天において現れ、共に主を礼拝する日が来る。
黙示録7:9 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、
7:10 大声で叫んで言った、「救は、御座にいますわれらの神と/小羊からきたる」。
7:11 御使たちはみな、御座と長老たちと四つの生き物とのまわりに立っていたが、御座の前にひれ伏し、神を拝して言った、
7:12 「アァメン、さんび、栄光、知恵、感謝、ほまれ、力、勢いが、世々限りなく、われらの神にあるように、アァメン」。
それ故、ダビデは主を、ほめまつるべき主と呼んで、ほめたたえている。
18:3 わたしはほめまつるべき主に呼ばわって、わたしの敵から救われるのです。
数多の苦しみと死の危険を通って来て、その都度主を呼び求め救われたダビデは、主を賛美したい心が募るあまり、聖歌隊を編成し、幾つもの詩篇を作って、主に賛美をいくつも捧げさせたのだ。
18:4 死の綱は、わたしを取り巻き、滅びの大水は、わたしを襲いました。
18:5 陰府の綱は、わたしを囲み、死の「わな(モケシュ)」は、わたしに立ちむかいました。
「わな」と訳された語モケシュは、動物を捕らえるための餌、あるいは疑似餌である。
ダビデの敵には、ペリシテ人のように彼を物理攻撃しようとしたものもあれば、彼を甘い誘惑へと誘った、霊的な敵であるサタンもいる。
死が、陰府が、またそこへと誘う罠が、縄のようにダビデにぐるぐる巻きに巻き付いて捕えた時、ダビデはその都度何をしたか。
18:6 わたしは悩みのうちに主に呼ばわり、わが神に叫び求めました。主はその宮からわたしの声を聞かれ、主にさけぶわたしの叫びがその耳に達しました。
ダビデは、その全ての悩みの内、から、主を呼び求めた。呼び求めると、主はその聖なる宮から、彼の叫び聞いて下さった。
主は、どんな状況の中からでも、主に叫び求める主の民の声を聞いて下さる。
ヨナはなんと、魚の腹の中から、大海原の底から主に助けを呼び求めた所、主は聞いて下さった。
『わたしは悩みのうちから主に呼ばわると、主はわたしに答えられた。わたしが陰府の腹の中から叫ぶと、あなたはわたしの声を聞かれた。あなたはわたしを淵の中、海のまん中に投げ入れられた。大水はわたしをめぐり、あなたの波と大波は皆、わたしの上を越えて行った。わたしは言った、『わたしはあなたの前から追われてしまった、どうして再びあなたの聖なる宮を望みえようか。』』(ヨナ2:2-4)
ヨナの場合、彼の苦しみは、彼の不従順に由来して来たが、そんな自分の身から出た錆の苦しみの中からでも、主の宮を思い焦がれ祈った祈りを、主は聞いてくださり、魚に命じて、彼を陸に吐き出させ、再びミニストリーの場に戻して下さった。
人がいかに地の奥底に下り、魚の腹にいても、あるいは、自身の不従順ゆえの苦しみの中にあっても、主は、その人呻きのような祈りを漏らさず聞いて下さるのだ。
18:7 そのとき地は揺れ動き、山々の基は震い動きました。主がお怒りになったからです。
18:8 煙はその鼻から立ちのぼり、火はその口から出て焼きつくし、炭はそれによって燃えあがりました。
ダビデが主を呼び求めた時、主は偉大な力を発揮された。
大地は震え動き、主の大いなる顕現をもって、現れてくださった。
主はダビデの祈りに聞いてくださった。
しかし、ダビデの敵が主を呼び求めても、主は聞かれなかった。(41節)
なぜなら主は、普段から主に真実な者に対して真実にあしらい、普段から主を軽んじている者は、軽んじられるお方だからだ。
サウル王は普段から主を軽んじた故に、預言者を軽んじ、祭司を虐殺し、主に油注がれたダビデを殺そうと追い回した。
それ故、いまわのきわに主を呼び求めても何も答えられず、夜が空けぬ内に霊媒や口寄せのところに行ってしまった。
普段から主を敬い、主を呼び求めつつ歩むなら、主は答えて下さるのである。
ダビデは生涯、主を呼び求めつつ歩んだ。私達も彼に習い、生涯、主を「わたしの主」と呼びつつ歩み、主から必要な助けを都度頂き、地上の人生を終える時には、信仰者の列へと加えられる者でありたい。