メッセージ - ダビデはその時代、神の御胸に従って仕え、先祖達の列に加えられた(詩篇18:20-29)
ダビデはその時代、神の御胸に従って仕え、先祖達の列に加えられた(詩篇18:20-29)
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- 執筆 :
- pastor 2018-9-28 16:19
ダビデはその時代、神の御胸に従って仕え、先祖達の列に加えられた(詩篇18:20-29)
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18:20 主はわたしの義にしたがってわたしに報い、わたしの手の清きにしたがって/わたしに報いかえされました。
18:21 わたしは主の道を守り、悪意をもって、わが神を離れたことがなかったのです、
18:22 そのすべてのおきてはわたしの前にあって、わたしはその定めを捨てたことがなかったのです。
18:23 わたしは主の前に欠けたところがなく、自分を守って罪を犯しませんでした。
18:24 このゆえに主はわたしの義にしたがい、その目の前にわたしの手の清きにしたがって/わたしに報いられました。
ある人は思うかもしれない。
よくもダビデは、「わたしは主の前に欠けた所なく、自らを守って罪を犯さなかった。」などと言えたものだ、と。
ダビデは、この詩篇を書いた時期は、まだサウル王から救われたばかりで、ウリヤとその妻に対しての罪を犯した時ではなかっただろうにしても、事の大小に関わらず、それなりに罪を犯して来たはずだ。
しかしそれは、人間主体の視点である。よく読むと、ダビデは言っている。
『「主は」わたしの義にしたがい、「その(主の)目の前に」わたしの手の清きにしたがって、わたしに報いられました』、と。(24節)
ダビデは、「主の目における義」「主の目にうつる清さ」にしたがって、報いて下さった、と言っているのだ。
大事なのは、人の目にどう写るかではなく、「主」の目にどう写り、どう主から評価されるかである。
永遠の書物である聖書が、ダビデに対して下した評価が、使徒13:36である。
『事実、ダビデは、「?その時代」の人々に「?神のみ旨にしたがって仕えた」が、やがて眠りにつき、「?先祖たちの中に加えられた。」』(使徒13:36)
この箇所を、コーエン大学総長のカン・シンゴン博士は「ダビデの碑文」と言っている。
まず「?その時代(his own generation)」、すなわち、ダビデの生きた世代には、現代の私達には分からない、その時代独自の文化があった。
その時代を背景に、ダビデだけが見聞きした経験があり、ダビデ以外には誰も代われない葛藤があり、そしてダビデ本人以外には誰も主に対して説明できない事情があり、主との関係があった。
人には、時代由来の事情がある。
藁の靴を履いていた時代には、時代特有の困難や罪があったであろうし、それは現代には無い。
同様に、インターネット時代の現代に特有の困難や罪があるが、それは昔には無い。
主は、全人類の分の、人生のはじまりから終わりまでの全ての痕跡も、時代の事情もご存知であるが、決して変わらない主の評価基準がある。
それは、いかなる時代や事情の下に置かれたのであれ、「?神の御胸に従って仕え」ようとして生きる事である。
どんな時代、どんな誘惑、どんな困難にあったとしても、その人が神の目的、計画、御胸、意図に従って生きる事こそ、主の目に高貴な事であり、それによって評価して下さるのだ。
この価値観に従って生きる人が、「?信仰者の先祖へと加えられる」のである。
ダビデは確かに、ウリヤの妻を寝取り、夫ウリヤを策略にかけて殺すという、赦し難い事をした。(2サムエル記11章)
しかし聖書は、「?彼自身の時代(his own generation)」という言葉をもって、ダビデが犯した全ての罪を覆い、「?神の御胸に従って仕え」ようともがきつつ生きたと評価し、そして「?信仰者の先祖へと加えられた」と結論づけた。
アブラハムも、サラも、旧約を見ると、色々と不信仰な事をして来たが、新約においては一切触れられておらず、ただ信仰によって行った偉大な事のみを取り上げ、諸々の過ちは覆われた。
主は私達をも、一人一人の諸々の罪を、「その時代に」という言葉の中へ、そっと埋めてくださり、主の御胸に従って仕えようとしてもがく一人一人を評価し、そして先祖の列に加えて下さるのだ。
あの時代、あの文化、一人の人生が歩んできた、あの人生・・・時代特有のぬかるんだ道、時代特有の間違いを犯してきた人生だっとしても、それでも主は「神のみ旨にしたがって仕えた」事こそ永遠に残して下さるのだ。
18:25 あなたはいつくしみある者には、いつくしみある者となり、欠けたところのない者には、欠けたところのない者となり、
18:26 清い者には、清い者となり、ひがんだ者には、ひがんだ者となられます。
主に対してねじ曲がった考え方をしている者を、主はどうされるか。
イエス様は「ミナのたとえ話」の中で話しておられる。
『ご主人様、さあ、ここにあなたの一ミナがあります。わたしはそれをふくさに包んで、しまっておきました。あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人なので、おそろしかったのです。』(ルカ19:20-21)
このしもべは、1ミナという大金を主人から預かっておきながら、自分が働かなかった事を棚に上げ、主人を「あなたはきびしい方で、おあずけにならなかったものを取りたて、おまきにならなかったものを刈る人」と、真実ではない邪推をし、その邪推を根拠に、主人を「きびしい方」と逆に責め、働かなかった事の言い訳をした。
それに対する主人の評価は次のものだった。
『悪い僕よ、わたしはあなたの言ったその言葉であなたをさばこう。わたしがきびしくて、あずけなかったものを取りたて、まかなかったものを刈る人間だと、知っているのか。では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきたとき、その金を利子と一緒に引き出したであろうに。』(ルカ19:22-23)
このしもべは、こんな主人に対してはわずかな「利息」さえ儲けさせるまい、という心だったため、主人は、彼が「さばいた通りに、さばき返した」のだ
主は、ねじ曲がった者に対しては、ねじ曲げる方である。
それ故、ダビデは言う。
18:27 あなたは苦しんでいる民を救われますが、高ぶる目をひくくされるのです。
これは、ダビデが人生を通して知った、主のご性質である。
主は、主の前にへりくだって自分の罪を言い表し、それを悔い、御前できよく歩もうとする心をこそ、ご覧になられる。
『神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心を/かろしめられません。』(詩篇51:16-17)
18:28 あなたはわたしのともしびをともし、わが神、主はわたしのやみを照されます。
18:29 まことに、わたしはあなたによって敵軍を打ち破り、わが神によって城壁をとび越えることができます。
結局、主に良しも悪しきも全部打ち明け、そのまま等身大で主に飛び込んで行く事こそ、主に愛され、主から助けをいただける性質なのだ。
色々な罪あやまちを犯して来た彼であった。
にも関わらず、彼が主に愛され、守られて来た秘訣は、そこにある。
主は、人の弱さを全部ご存知であり、全人類の弱さを思いやって執り成す大祭司である。
ヘブル4:14 さて、わたしたちには、もろもろの天をとおって行かれた大祭司なる神の子イエスがいますのであるから、わたしたちの告白する信仰をかたく守ろうではないか。
4:15 この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである。
4:16 だから、わたしたちは、あわれみを受け、また、恵みにあずかって時機を得た助けを受けるために、はばかることなく恵みの御座に近づこうではないか。
それだからダビデは言うことが出来たのだ。
「このゆえに主はわたしの義にしたがい、その目の前にわたしの手の清きにしたがって/わたしに報いられました。」(24節)
私達もイエス・キリストゆえに大胆に御前に進み出て、おりにかなった助けをいただくものでありたい。