メッセージ - 御言葉によって神の「良し」へと再創造される私達(詩篇19:1-6)
御言葉によって神の「良し」へと再創造される私達(詩篇19:1-6)
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詩篇19篇の中盤、7節から9節には、主(エホバ)の御名が1節に2つづつ、合計6回登場し、主エホバの御言葉と交わる事の素晴らしい効用がリストアップされている。
19:7a 主の「おきて(トーラー)」は完全であって、魂を「生きかえらせ(シューブ)」
ユダヤ人は「テフィリン教育」すなわち御言葉の暗唱教育をしており、そのため、世界的な天才を多く排出し、富においても支配権においても大きな力を持っている。
この、御言葉暗唱の効用の第一が、「たましいを生き返らせる」事である。
暗唱の過程で、御言葉を1節1節繰り返して宣言して行くごとに、罪と肉に埋もれた人間の魂は、息を吹き返し、耳が、脳が、心が、霊が、蘇生して行くのだ。
主エホバの「おきて(トーラー)」は完全である。
トーラーは主の御言葉であり、そして主の御言葉は、世界を創造した。
主が「光よあれ」と言えば、光が出来、主の言葉によって全宇宙も全被造物も、全生物も、そして私達人間も創造され、そして存続している。
主は、創造したそれら全てを見て「はなはだ良し」と宣言された。(創世記1:31)
その、完全なる主の御言葉が、テフィリンによって私達の中に刻み込められて行く時、魂の生き返り(シューブ)が行われ、罪によってぼろぼろになってしまった私達の人生の中に、主のトーブ(良し)が息吹かれ、再構築されて行くのだ。
シューブとは「帰る」という意味であるが、つまり、主の最初の創造のトーブから離れてしまった私達の中に、主の御言葉が浸透して行く事によって、当初のトーブへと、どんどん「帰る」のである。
19:7b 主のあかしは確かであって、無学な者を賢くする。
私達がテフィリンをするべきもう一つの理由は、賢くなるからである。
主の御言葉が入っていけば行くほど、知恵が高められて行く。
ユダヤ人が頭脳が優れているのは、テフィリン教育によって育てられたからだ。
19:8 主のさとしは正しくて、心を喜ばせ、主の戒めはまじりなくて、眼を明らかにする。
主のさとし(ピクド:定められた法令、戒め、教訓)は、正しく、それを聞けば、心は喜びを覚える。
御言葉をテフィリンする人は、どんどん喜びが増し加わっていき、表情が良くなって行き、目に輝きが増していく。
ユダヤ人女性は美女が多い、と言われているが、それは、まさにテフィリン教育のためであり、御言葉を取り入れる事こそ、最高のエステであると言って良い。
19:9 主を恐れる道は清らかで、とこしえに絶えることがなく、主のさばきは真実であって、ことごとく正しい。
きよくなる事を目指す人は多いが、「主を恐れる事」なしには、あり得ない。
御言葉が入ると、正しく恐れるべきお方が分かるようになる。
そして、正しい真理に立つ事によって、キリストにある私達は、悪魔サタンを少しも恐れる必要が無い、という事も分かるようになって行く。
詩篇19篇の後半では、これら、主エホバの御言葉の素晴らしさが、結論として示されている。
19:10 これらは金よりも、多くの純金よりも「慕わしく(カゥマド)」、また蜜よりも、蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 あなたのしもべは、これらによって戒めをうける。これらを守れば、大いなる報いがある。
「慕わしく(カゥマド)」するべきは、御言葉である。
カゥマドしてはならないもの、すなわち、手出ししてはならないものが、十戒で定められている。それはすなわち、隣人の妻や家、隣人の持ち物である。(申命記5:21)
また、主の忌み嫌われる、滅ぼし尽くすべきものもカゥマドしてはならない。
アカンは、聖絶すべきものを「欲しがって(カゥマド)」、自分のみならず、家族をも滅ぼしてしまった。(ヨシュア記7:21)
御言葉こそカゥマドすべきものであり、これは知れば知るほど、また味わえば味わうほどに甘く、麗しく、望ましいものになってゆく。
19:12 だれが自分のあやまちを知ることができましようか。どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。
19:13 また、あなたのしもべを引きとめて、故意の罪を犯させず、これに支配されることのないようにしてください。そうすれば、わたしはあやまちのない者となって、大いなるとがを免れることができるでしょう。
19:14 わが岩、わがあがないぬしなる主よ、どうか、わたしの口の言葉と、心の思いが/あなたの前に喜ばれますように。
人は意外と、自分のあやまちを知らない・気づきにくいものであるが、御言葉は、自分が気づかなかった「とが」を知る事が出来、そして、そこから離れる事が出来る手助けをしてくれる。
あるテフィリンを続けた人の体験談として、それまで、Aの物事に対しては無意識的にBで対応して来ていた人が、テフィリンをするようになると、Aで来た事に今までBで返そうとする直前、テフィリンで蓄えてきた御言葉が、その人の心にストップをかけ、さらに、今までBで返してきた事によって人を傷つけ、人から嫌われ、今まで見えていなかったBの行い故に自分が災いを被ってきた数々が思い出され、結果、Bはもはや止めて、御言葉に適ったCの方法で返すようになった、という。
テフィリンした人は、このような御言葉による無意識的・自動的な「矯正体験」を幾つも持っていて、人生つまづく要素がどんどん減って行った、という。
御言葉が入ると、その人の中の罪の性質は拭い去られ、それまで見えなかった、きよい道が見えるようになる。
そして、今まで見えていなかった自分の汚れた所も見えるようになり、恥じ入り、悲しみ、それを心底、投げ捨てる事が出来るようになっていくのだ。
偉大なわざをなすのは、主の御言葉である。