メッセージ - 主イエス様の受難を的確にあらわした詩(詩篇22:1-21)
主イエス様の受難を的確にあらわした詩(詩篇22:1-21)
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詩篇22篇 聖歌隊の指揮者によってあけぼののめじかのしらべにあわせてうたわせたダビデの歌
この詩は、ダビデの受難の時の詩であるが、まさしく新約のイエス・キリストの受難をあらわしている。
22:1 わが神、わが神、なにゆえわたしを捨てられるのですか。なにゆえ遠く離れてわたしを助けず、わたしの嘆きの言葉を聞かれないのですか。
これはまさしく、イエス様が十字架の上で叫ばれた言葉だ。
マタイ27:45 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなって、三時に及んだ。
27:46 そして三時ごろに、イエスは大声で叫んで、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われた。それは「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
詩篇22:2 わが神よ、わたしが昼よばわっても、あなたは答えられず、夜よばわっても平安を得ません。
夜、イエス様はゲツセマネの園で、血の滴りのような汗を注ぎだして父なる神に祈ったが、祈りは聞かれなかった。
昼、十字架の上でイエス様は父なる神に呼ばわったが、何の助けもこなかった、どころか、闇が全地を覆った。
まことに彼は、十字架の上で、神に、捨てられ尽くしたのだ。
詩篇22:3 しかしイスラエルのさんびの上に座しておられる/あなたは聖なるおかたです。
主は、賛美を住まいとしておられる。
イエス様は、十字架の上では父なる神から答えられなかったが、私達は、苦しみの中で賛美する時、主はそこに住んでおられ、私達の声を聞いておられるのだ。
詩篇22:4 われらの先祖たちはあなたに信頼しました。彼らが信頼したので、あなたは彼らを助けられました。
22:5 彼らはあなたに呼ばわって救われ、あなたに信頼して恥をうけなかったのです。
ダビデも、主に見捨てられたような気がして、昼も夜も主に叫び求め、それでも答えが無いという所を通らされた。
信仰にあって生きる私達も、そのような所を通らされるときがある。
主に救いを求めても、求めた直後にすぐ来ない事のほうが多い。しかし、主の助けは、遅くなる事は無い。
ダビデは結局、助けが遅れる事なく、あらゆる敵から、困難から、彼の人生で何度も助け出された。彼の人生の終わり方は、敵に囲まれてみじめに死んでいくものではなく、大勢の臣下の前で、偉大な王として人生を全うし、葬られた。
それなのに、イエス様は。
彼は助けを呼び求めても、答えはないまま、十字架の上で、敵に囲まれてみじめに死んで行った。
本来、私達こそ、それに値するのに、イエス様が、代わりを引き受けて下さったからだ。
詩篇22:6 しかし、わたしは虫であって、人ではない。人にそしられ、民に侮られる。
ここで使われている「虫」という言葉は、ヘブライ語でトラー、ことさら「ミミズ」をあらわす語で、あるいは、ミミズの色である「紅」をあらわす。
イザヤ書1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。「紅(トラー)」のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
主はイザヤを通して、あなたの罪が、ミミズのように醜く汚らわしく、そして赤くても、雪のように、羊の毛のようになる、と言って下さった。
なぜなら、イエス様が、私達の身代わりとして人間以下に、虫けらのようになって、私達の罪と刑罰を一身に負ってくださったからだ。
イザヤ41:14 主は言われる、「「虫(トラー)」にひとしいヤコブよ、イスラエルの人々よ、恐れてはならない。わたしはあなたを助ける。あなたをあがなう者はイスラエルの聖者である。
なぜ虫にも等しいイスラエルの人々、すなわち、私達(ガラテヤ6:16)は、恐れなくても良いのか。
それは、イエス様が私達の身代わりに、虫に等しくなって、助けてくださったからだ。
詩篇22:7 すべてわたしを見る者は、わたしをあざ笑い、くちびるを突き出し、かしらを振り動かして言う、
22:8 「彼は主に身をゆだねた、主に彼を助けさせよ。主は彼を喜ばれるゆえ、主に彼を救わせよ」と。
これと同じののしりを、イエス様は十字架の上で受けた。
マタイ27:43 彼は神にたよっているが、神のおぼしめしがあれば、今、救ってもらうがよい。自分は神の子だと言っていたのだから」。
27:44 一緒に十字架につけられた強盗どもまでも、同じようにイエスをののしった。
詩篇22:11 わたしを遠く離れないでください。悩みが近づき、助ける者がないのです。
22:12 多くの雄牛はわたしを取り巻き、バシャンの強い雄牛はわたしを囲み、
22:13 かき裂き、ほえたけるししのように、わたしにむかって口を開く。
ダビデは度々、敵意の人々に取り囲まれた。力強い牛のような、あるいは、吠えたけるししのような強き者達から。
イエス様も、悪意の者達から取り囲まれた。それもイエス様は、取り囲む彼らよりも圧倒的に強いにもかかわらず。
イエス様があえて、その者達に対しては無抵抗で「わざと」取り囲まれたのは、まさに、イエス様に悪をたくらむ彼らの罪の身代わりに、十字架にかかるためだった。
詩篇22:14 わたしは水のように注ぎ出され、わたしの骨はことごとくはずれ、わたしの心臓は、ろうのように、胸のうちで溶けた。
イエス様は、ゲツセマネで血の滴りのような汗を注ぎだした。
そして十字架の上で、イエス様の骨ははずされた。
十字架上では、釘打たれた手と足に全体重がかかり、体の重みで両肩の関節がはずれ、それによって、胸が広がらなくなり肺が圧迫され、呼吸が苦しくなるという。
詩篇22:15 わたしの力は陶器の破片のようにかわき、わたしの舌はあごにつく。あなたはわたしを死のちりに伏させられる。
イエス様は十字架上で言われた。
ヨハネ19:28 そののち、イエスは今や万事が終ったことを知って、「わたしは、かわく」と言われた。それは、聖書が全うされるためであった。
しかし、渇いた彼に人が飲ませたのは、酸いぶどう酒だった。
主は、イスラエルを乳と蜜の流れる地に「甘いぶどう」として植え、よく育つための必要な全てを整え、よく手入れし、甘く良い実を結ばせる事を期待した。しかし、彼らが神に対して結んだ実は、酸いぶどうだった。(イザヤ5:1-2)
ヨハネ19:30 すると、イエスはそのぶどう酒を受けて、「すべてが終った」と言われ、首をたれて息をひきとられた。
イエス様は、酸いぶどうとなってしまった人間性を、全部飲み干し尽くされ、「完了した(テテレスタイ:完成した、支払い尽くした)」と言われた。
人が本来受けるべき処罰を、一身に受け、全人類の罪の借金を、支払い尽くして下さったのだ。
詩篇22:16 まことに、犬はわたしをめぐり、悪を行う者の群れがわたしを囲んで、わたしの手と足を刺し貫いた。
22:17 わたしは自分の骨をことごとく数えることができる。彼らは目をとめて、わたしを見る。
22:18 彼らは互にわたしの衣服を分け、わたしの着物をくじ引にする。
イエス様の十字架の場面で、まさにこの事も成就した。
ルカ23:34 そのとき、イエスは言われた、「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
23:35 民衆は立って見ていた。
イエス様の、この偉大な執り成し故に、全人類は救われた。
しかし、この偉大な執り成しの最中、人々がした事といえば、イエス様の着物を、くじで分けた事だった。
詩篇22:19 しかし主よ、遠く離れないでください。わが力よ、速く来てわたしをお助けください。
22:20 わたしの魂をつるぎから、わたしのいのちを犬の力から助け出してください。
22:21 わたしをししの口から、苦しむわが魂を野牛の角から救い出してください。
ダビデは、この祈りによって助け出され、救い出された。
しかしイエス様は、十字架の上で助け出されなかった。
私達全て、この、十字架に身代わりにつけられて下さった主イエス様の御名によって呼び求めるなら、助けを得るのである。
私達はただイエス様の前に感謝し賛美を捧げる以外には無い。