メッセージ - 低くされた後、高くされ、栄光を受けるまでの道のり(詩篇22:22-31)
低くされた後、高くされ、栄光を受けるまでの道のり(詩篇22:22-31)
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- 礼拝メッセージ説教音声配信 » 講解説教(旧約) » 詩篇
- 執筆 :
- pastor 2018-10-18 20:55
低くされた後、高くされ、栄光を受けるまでの道のり(詩篇22:22-31)
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詩篇22篇の前半は、受難の叫びで満ちていたのに対し、22節以降の後半は、賛美で溢れている。
それは、この詩篇の作者であるダビデが、苦難の中で低くされた後に栄光が与えられた事をあらわしていると同時に、イエス様の受難と死、そして復活と栄光化を正確にあらわす預言である。
ダビデは最初、主は祈りに答えてくださらない、という思いに満たされていた(2節)。
それで主にずっと叫び続け、祈り続けて行く内に、主が答えて下さったという感覚を得られ、ついには、主は彼の声に聞いて下さった、という確信を得られた。(24節)
22:22 わたしはあなたのみ名を兄弟たちに告げ、会衆の中であなたをほめたたえる(ハラル)でしょう。
ダビデの、それまでの苦悩に満ちた祈りは、聞かれた事の確信ゆえに、主への賛美(ハラル)へと切り替わった。
ハラルはハレルヤの元であり、それには、(主を)誇りに思う、高める、重きを置く事の意味がある。
ダビデは、祈って得た確信と喜びゆえに、今度は人々に、主をハラルする事を勧めて行く。
22:23 主を恐れる者よ、主をほめたたえよ(ハラル)。ヤコブのもろもろのすえよ、主をあがめよ(カバド)。イスラエルのもろもろのすえよ、主をおじおそれよ(グル)。
カバドは「重んじる」「栄光を帰す」意味があり、その意味においてハラルと重なる。
主を喜び、ほめ讃える事は良い事だが、それは、主へのおそれ(グル)を伴っていなければならない。
主へのおそれが無ければ、主の言葉を軽んじ、主の約束を平気で破ってしまうからであり、主をおそれ敬う心が無い賛美は、ただの「盛り上がり」を求める世の歌と変わりがないからだ。
22:24 主が苦しむ者の苦しみをかろんじ、いとわれず、またこれにみ顔を隠すことなく、その叫ぶときに聞かれたからである。
主は聞かれた…ダビデはその確信を得た。それで彼は、心からの喜び、嬉しさが湧き上がり、主をハラルしたい、と心底願ったのである。
主をハラルするに至るまでには、幾つかのステップが必要である。
まずは、主の御言葉を、よく思い巡らし、咀嚼し、黙想する事(ハガー)が最初である。
その御言葉の土台の上に、祈り(テフィラー)を積み重ねるのだ。御言葉をハガーするという「土台」が無い祈りは、単なる、身勝手な願望の並べ立てに過ぎなくなってしまう。
御言葉に基づいた祈りを口ずさむ事(シイハー)を続けて行く内、諸々の感情が段々と湧いてくる。愛情や喜びや平安、あるいは、うめきや悲しみなど。
この「口ずさみ」に、それらの感情を乗せたメロディや、あるいは体を使った表現が加わると、それがすなわち「賛美(テヒラー)」である。
テヒラー(תְּהִלָּה)は賛美、賛美歌、賞賛、名声などの意味で、テフィラー(תְּפִלָּה)は祈り、あるいは祈りの賛美の意味である。いずれにも、hymn(賛美歌)の意味が含まれている。
ダビデは3節で「イスラエルの「さんび(テヒラー)」の上に「座して(ヤーシャブ:住む)」おられる/あなたは聖なるおかたです。」と言っていた。
そうである。私達の主を賛美する時、喜び踊るような嬉しい感情、あるいは、誰かを執り成しうめく感情など、それらを乗せた賛美(テヒラー)の内に、主は、住まわれるのである。
そうして、遂には、主をほめ讃える(バラク)段階、あるいは主を誇りに思って高める「ハラル」の段階になって行く。
こそ段階に至るまで、ダビデは、苦しみうめき祈ったのが、詩篇22篇前半である。
ダビデはその段階の時、主は「お答えにならない」ような気もしていたが(2節)、それでも御言葉を黙想し、祈り続けた結果、「主は聞いて下さった」という確信を得て(21節)、主を喜び歌う段階に入る事が出来た。
22:25 大いなる会衆の中で、わたしのさんび(テヒラー)はあなたから出るのです。わたしは主を恐れる者の前で、わたしの誓いを果します。
ダビデは「わたしのさんび(テヒラー)はあなたから出るのです」と言った。
そう、心から主を喜ぶテヒラーは、主が下さる。
そして私達の分は、主に向かって祈る事である。
ダビデは主を喜ぶあまり、喜び踊った。妻のミカルから蔑まれるほど。彼はそれだけ主を求め続けたからだ。
22:26 「貧しい者(アーナブ)」は食べて飽くことができ、主を尋ね求める者は主をほめたたえる(ハラル)でしょう。どうか、あなたがたの心がとこしえに生きるように。
アーナブは「へりくだった者」「低くされた者」の意味であり、KJVでは「meek」と訳されている。
へりくだった心こそ、食べ飽く事が出来る人の性質なのだ。
22:27 地のはての者はみな思い出して、主に帰り、もろもろの国のやからはみな、み前に伏し拝むでしょう。
ダビデは仰ぎ見ていた。地の果ての人々さえも、主に帰り、主に伏し拝む事を。
まさに、イエス様が十字架につけられ、死んで葬られ、よみがえり、天に昇られて以降、全世界の人々がイエス・キリストに帰り、彼を伏し拝んでいる。
続く節では、十字架につけられ低くされたイエス様が、今度は高められる事が記されている。
22:28 国は主のものであって、主はもろもろの国民を統べ治められます。
22:29 地の誇り高ぶる者はみな主を拝み、ちりに下る者も、おのれを生きながらえさせえない者も、みなそのみ前にひざまずくでしょう。
22:30 子々孫々、主に仕え、人々は主のことをきたるべき代まで語り伝え、
22:31 主がなされたその救を/後に生れる民にのべ伝えるでしょう。
30節の「子孫(ゼラ)」は、原文は単数形であり、その単数形の「子孫」はすなわちイエス・キリストをあらわす。
イザヤ書53章も詩篇22篇同様、前半はキリストの受難が、すなわち、彼が低くされる事が記されており、そしてその後、彼は高くされ、その支配は永遠に続く事が記されている。
イザヤ53:10 しかも彼を砕くことは主のみ旨であり、主は彼を悩まされた。彼が自分を、とがの供え物となすとき、その子孫(ゼラの単数形)を見ることができ、その命をながくすることができる。かつ主のみ旨が彼の手によって栄える。
父なる神様が、彼の子であるイエス様を砕く事は、御心だった。
それは、彼が砕かれて後、栄光を受け、その「命をながく」、すなわち、彼に永遠の王権が与えられ、永遠に栄えるためにである。
53:11 彼は自分の魂の苦しみにより光を見て満足する。義なるわがしもべはその知識によって、多くの人を義とし、また彼らの不義を負う。
53:12 それゆえ、わたしは彼に大いなる者と共に/物を分かち取らせる。彼は強い者と共に獲物を分かち取る。これは彼が死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を負い、とがある者のためにとりなしをした。
イザヤ53章でも、詩篇22篇でも、油注がれた神の御子キリストは、受難を受け、低くされ、あざけられ、ののしられ、罰せられ、死ぬ事が示され、そしてその後に復活し、高くされ、栄光が与えられる事が示されている。
イエス様はまさに、旧約聖書の随所にある預言の通りに歩まれ、そして今、世界中の、彼によって救われた人々から、あがめられ、栄光を受けているのである。