メッセージ - 死の陰の谷を歩むとも災いを恐れない - ジェホバ・ニシ(主はわが旗)(詩篇23:4a)
死の陰の谷を歩むとも災いを恐れない - ジェホバ・ニシ(主はわが旗)(詩篇23:4a)
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- 執筆 :
- pastor 2018-11-5 8:15
死の陰の谷を歩むとも災いを恐れない - ジェホバ・ニシ(主はわが旗)(詩篇23:4a)
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「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。」(詩篇23:4a)
この有名な言葉の中には、主の御名「ジェホバ・ニシ(Jehovah Nissi:主はわが旗)」のご性質が現れている。
このジェホバ・ニシという主の御名が登場する箇所は、出エジプト記17:15 で、そこは、イスラエルが奴隷の国エジプトを脱出した直後、主から示された約束の地・カナンへ移動する途中、アマレクが襲いかかってきた時のことである。
アマレクは、イスラエルの中で行軍に疲れ、弱って後方にいた人達を狙いうちにして、襲ってきた。
彼らの性質を一言で言うなら、「弱い者いじめ」である。主はそのような者は、断ち切られる。(申命記25:17-19)
『モーセはヨシュアに言った、「われわれのために人を選び、出てアマレクと戦いなさい。わたしはあす神のつえを手に取って、丘の頂に立つであろう」。ヨシュアはモーセが彼に言ったようにし、アマレクと戦った。モーセとアロンおよびホルは丘の頂に登った。』(出エジプト記17:9-10)
モーセが丘の上で手をあげたのは、背後で祈り、実戦部隊として戦うヨシュア達を祝福するためである。
私達の戦う武器は、鉄のものではなく「霊による剣、すなわち御言葉」であり、その手段は、肉弾戦ではなく「祈り」である事が、エペソ6章に記されている。
モーセは、祈りの重要性をよく認識していた。
だからアマレクが襲って来た時、主から特に指示される前に、祈りの手を上げたのだ。
『モーセが手を上げているとイスラエルは勝ち、手を下げるとアマレクが勝った。』(11)
モーセが背後で祝福の手を上げて祈る、その手が、戦いを左右した。
事実、祈る教会と、祈らない教会とは、大きな違いが出てくる。
教会と世の組織との違いは、祈りがあるか、ないか、と言って良い。
世の人は、ただ肉弾戦で戦おうとするが、しかし教会は、主の御名によって祈る事によって、天の扉を開けたり閉めたりする権威が与えられているのである。
祝福の手を挙げる事は、どれほど重要か。
アロンとフルは、その重要性に気づき、石を取ってモーセが座れるようにし、さらに二人は両脇からモーセの手を支えた。
それで彼の手は日没までしっかり挙げられたままだった。ヨシュアはアマレクの軍を打ち敗った。
そしてヨシュアは、丘の上で手を上げているモーセを背後に、安心して戦う事が出来た。
この経験が元で、ヨシュアは後に、積極的に祈って勝利へと導く指導者となる。
彼が指導者になった時、彼はアイの町を攻撃する際に、槍をずっとその町に向かって上げ、イスラエルが勝利するまで手を引っ込めなかった(ヨシュア8:26)。
また彼は、祈りによって太陽と月を一日停めて、イスラエルの敵が滅ぼされるまで、太陽と月は沈まなかった。(10:12)
手を上げて祈る事は、すなわち、主の旗を掲げる事である。
『主はモーセに言われた、「これを書物にしるして記念とし、それをヨシュアの耳に入れなさい。わたしは天が下からアマレクの記憶を完全に消し去るであろう」。モーセは一つの祭壇を築いてその名を「主はわが旗」と呼んだ。そしてモーセは言った、「主の旗にむかって手を上げる、主は世々アマレクと戦われる」。』(出エジプト記17:14-16)
ここに「主はわが旗(ジェホバ・ニシ)」という主の御名が出てきた。
それは『主の御座の上の手』のことであると書いてある。
つまり私達が手を上げて祈る時、その手が主の旗となり、そこに神の国の影響が、神の統治が、その場所に及ぶようになる、という事なのだ。
手を上げて祈る事が、いかに大事だろう。
戦いに勝利した時や、未開の土地に初めて踏み入れた時など、そこに、自分たちの旗を立てて、「ここは自分たちのもの、自分達の統治が及ぶ所」、と内外に宣言するように、祈りの手を挙げる事も、そうである。
自分の子供や家族のために、会社のために祈る時、あるいは、邪悪な領域に足を踏み入れて伝道する時に、祈りの手を挙げるのである。
そうする事で、そこに神の国の統治権を呼び起こす事が出来るのだ。
ただし、手を挙げれば誰でも祈りが聞かれるわけではない。
その祈る手は、神に従う「きよい手」でなくてはならない。
『ですから、私は願うのです。男は、怒ったり言い争ったりすることなく、どこででもきよい手を上げて祈るようにしなさい。』(1テモテ2:8)
『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗いきよめなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。』(ヤコブ4:8)
モーセやヨシュアのように、指導する立場にある人は、きよい手を挙げて祈る事が大事であり、祈る立場の人が煩いなく祈りに専念できるように、助ける人も重要であり、もちろん実際に働く人も大事である。
このように、モーセ、アロン、フル、ヨシュア、それぞれに役割があったように、教会の牧会の現場も、手を上げて祈る人、祈りに専念できるように支える人、実戦部隊として戦う人、それぞれ役割があるのだ。
新約の教会、エクレシアの中において、私達はそれぞれの役割を果たし、主の愛の旗印の下で勝利の歩みをして行く集いでありたい。