メッセージ - 詩篇23篇の最後を信仰告白で飾ったダビデ(詩篇23:6)
詩篇講解説教
詩篇23篇の最後を信仰告白で飾ったダビデ(詩篇23:6)
Youtube動画
メッセージ音声
________________
『わたしの生きているかぎりは/必ず恵みといつくしみとが伴うでしょう。わたしは
とこしえに主の宮に住むでしょう。』(詩篇23:6)
ダビデは最後の6節を、自分の主に対する信仰告白で飾った。
聖書の最後も、聖徒の信仰告白で飾られている。
信仰は、表現されなければならない。
内に閉じこめているものは、信仰とは言わない。もし信仰があるというなら、表現しなくてはならない。
ヤコブ2:14 わたしの兄弟たちよ。ある人が自分には信仰があると称していても、もし行いがなかったら、なんの役に立つか。その信仰は彼を救うことができるか。
ダビデは5節までは、自分が信じている神のご性質を表現して来たが、この6節で彼は彼自身の信仰を告白し、この神に対し、自分はこれからどうして行きたいのかを表明した。
「Surely goodness and mercy shall follow me All the days of my life・・・」
わたしの人生の全体に、と、ダビデは、告白した。
一生の間、主の「いつくしみ」と「恵み」が追いかけてくるだろう、と。
恵みといつくしみは、英語ではgoodness and mercy、ヘブライ語ではトーブ טוב と ヘセド ד ח ד סד である。
「 טוב トーブ」は「良し」という意味であり、創世記1章にて主が創造の御業を行った都度、それについて評価した言葉である。
主の創造の御業は常にトーブであり、主と共に歩むなら私達もいつもこの主のトーブを獲得できる。
このトーブには、
1,Perfect! パーフェクト!
2,Beautiful! ビューティフル!
3,Good! グッド!
の意味がある。
続く「恵み ד סד ヘセド」は、恵み、慈悲、憐れみ、いつくしみ深い、の意味である。
主の御業は、つねにパーフェクト、ビューティフル、グッドであるが、人間がその主の言葉に対して返した、御言葉に対する反逆の結果は、ことごとくその逆、すなわち、不完全であり、醜悪であり、バッドであった。
その結果もたらされた呪い、病、死の中にうめきつつ生きなくてはならなくなってしまったが、その状態の中にある人間に、救いの手が差し伸べられて、主の再創造の良きわざが与えられること、それがすなわち「恵み(ヘセド)」である。
例えば、堕落した生活ゆえに病になってしまった時、主の癒やしが行われたなら、その癒やしが、恵みである。
恵みは、主の創造のトーブに対し、人間がしてしまった罪による破壊、その破壊ゆえに人には病や死が入ってきてしまった、この破壊、死、病に対し、主の側が、一方的に再建を、いのちを、癒やしを与えて下さった事である。
恵みとは一方的に与えられるものであり、それは一切人間のわざではなく、ただ一方的に天から与えられる良きわざである。
主の家に住まう事、それはすなわち、トーブとヘセードを、両腕にかかえて生きる人である。
共にいます主の創造のトーブのわざがいつも共にあり、もし主から離れて、罪ゆえの破壊が起きてしまったとしても、主に立ち返るなら、主のヘセドがそれを癒やしてくださる。
ダビデはいつも、そのトーブとヘセドに囲まれた人生であった。
それで彼は告白したのだ。
トーブとヘセードがずっとわたしを追いかけてくるから、生涯、わたしは主の家に住もう、と。
男女関係においても、告白が無いなら、関係は成立しない。
その点、雅歌書は愛の告白で満ちているからこそ、愛の甘さ酸っぱさの感覚で溢れている。
雅歌2:3 私の愛する方が若者たちの間におられるのは、林の木の中のりんごの木のようです。私はその陰にすわりたいと切に望みました。その実は私の口に甘いのです。
2:4 あの方は私を酒宴の席に伴われました。私の上に翻るあの方の旗じるしは愛でした。
2:5 干しぶどうの菓子で私を力づけ、りんごで私を元気づけてください。私は愛に病んでいるのです。
2:6 ああ、あの方の左の腕が私の頭の下にあり、右の手が私を抱いてくださるとよいのに。
雅歌書の男女は、相手がいかなる方であるのか、自分は相手にどうして欲しいのかという告白で満ちているから、この関係が甘く麗しい関係である事が分かる。
私達も、主がいかなるお方であるお方であるか、どのようにして欲しいのかを常に告白するべきである。
そうすれば、主との関係がどんどん甘く麗しいものになって行く。
トーブとヘセドを送ってくださる主。
わたしを緑の牧場へと導いて下さった主、死の陰の谷も守り導いて下さった主。
敵の前で宴を設けて下さった主。
わたしを愛して下さった、わたしの愛する主の家に住む。それは何と甘くうれしい日々、エデンの園で過ごすかのような幸いな日々だろう。
私たちもダビデのように告白し、トーブとヘセドを私達の人生に結びつけたい。