メッセージ - 罪の問題を主に解決していただいた「幸いな人」(詩篇32篇)
罪の問題を主に解決していただいた「幸いな人」(詩篇32篇)
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詩篇32篇 ダビデのマスキールの歌
これは7つの悔い改めの詩篇(6,32,38,51,102,130,143篇)の中の1つである.マスキールの意味は明確ではないが,8節の「悟りを与え」と同じ言葉であり,アモ5:13の「賢い者」と同語であることから,「教訓的な」内容の詩篇という理解もある.13の詩篇に表題として用いられている.47:7の「巧みな歌で」が〈ヘ〉マスキールであることから,演奏上技巧を要した曲を指すものと思われる(実用聖書注解)
詩篇32:1 そのとががゆるされ、その罪がおおい消される者はさいわいである。
32:2a 主によって不義を負わされず
詩篇32篇も、詩篇1篇と同様、「さいわいである(アシュレイ)」という言葉から始まる。
どういう人が幸いな人か。
まず、「罪がおおい消される者」、また、「主によって不義を負わされず」の人である。
イザヤ書1:18 主は言われる、さあ、われわれは互に論じよう。たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなるのだ。「紅(トラー)」のように赤くても、羊の毛のようになるのだ。
雪が大地を覆うと、大地がいかに汚くとも、一面銀世界となるが、その雪の下は、相変わらず汚いままである。
しかし「主によって不義を負わされ」ないという、本質的に罪の問題が解消される段階がある。
それは、新しいいのちへ生まれ変わる段階である。
このイザヤ1:18で使われている「紅」という言葉は、ヘブライ語でトラー、ことさら「ミミズ」をあらわす故、ミミズの色である「紅」と訳されている。
主はイザヤを通して、あなたの罪が、ミミズのように醜く汚らわしく、そして赤くても、雪のように、羊の毛のようになる、と言って下さった。
私達が罪人として、ミミズのように地を這いつくばって塵を食べるような生き方は、もはや死へと明け渡し、神の子として生まれ変わららされたのは、イエス様が私達の身代わりとなって、人間以下に、虫けらのようになって、私達の罪と刑罰を一身に負ってくださったからだ。(詩篇22:6)
詩篇32:2b その霊に偽りのない人はさいわいである。
ダビデは「霊に偽りのない人」はさいわいである、と言った。
私達は、口先と心を裏腹にして偽る事は良くする。しかし霊は正直であり、自分で自分を偽りようが無い。
しかし、霊が自分の犯した罪を知っていて、主からも指摘されておりながら、それを主の御まえに認めず、悔い改めないまま残している状態が、霊に偽っている状態である。
ダビデは、そのような状態にあった時の苦しみを、以下のように告白している。
詩篇32:3 わたしが自分の罪を言いあらわさなかった時は、ひねもす苦しみうめいたので、わたしの骨はふるび衰えた。
32:4 あなたのみ手が昼も夜も、わたしの上に重かったからである。わたしの力は、夏のひでりによって/かれるように、かれ果てた。〔セラ
自分の罪を言い表さなかった時には、次の「損」がつきまとう。
すなわち、一日中苦しみうめき、御手が重くのしかかり、あたかも夏のひでりに枯れ果てるような思いがするのだ。
楽になるためには、罪を告白し、悔い改めて、その重荷を下ろす事である。
詩篇32:5 わたしは自分の罪をあなたに知らせ、自分の不義を隠さなかった。わたしは言った、「わたしのとがを主に告白しよう」と。その時あなたはわたしの犯した罪をゆるされた。〔セラ
罪は誰でも犯すが、その罪を赦される人と、赦されずに災いを背負って行く人とに別れる。
赦される人とは、自分の犯してしまった罪に、心痛め、主に告白して悔い改め、そこから離れようとする人である。
しかし、罪を犯す事に躊躇せず、罪を指摘された時も、いややっていない、と言うような人には、打ち叩きの杖がいつも付きまとう。
それ故、主に対しては、思い出す限り、罪を告白しなくてはならない。
主は、気づかせる。ちょうど、ヤコブの子ユダに隠している罪を気づかせたように。(創世記38章)
そして、気付かされた後、その自分の罪についてどうするかという判断は、本人の自由意志に任されている。
主は私達キリスト者には、罪を犯した時に苦しいと思える心を与えて下さるが、それは特権である。
そして告白して悔い改めたなら、主はその罪をゆるし、きよめて下さる。
1ヨハネ1:8 もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くことであって、真理はわたしたちのうちにない。
1:9 もし、わたしたちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しいかたであるから、その罪をゆるし、すべての不義からわたしたちをきよめて下さる。
1:10 もし、罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とするのであって、神の言はわたしたちのうちにない。
それで私達は、はばかることなく主に祈ることができる。
32:6 このゆえに、すべて神を敬う者はあなたに祈る。大水の押し寄せる悩みの時にも/その身に及ぶことはない。
32:7 あなたはわたしの隠れ場であって、わたしを守って悩みを免れさせ、救をもってわたしを囲まれる。〔セラ
32:8 わたしはあなたを教え、あなたの行くべき道を示し、わたしの目をあなたにとめて、さとすであろう。
主は私達に、自由意志を与えて下さった。
主は求めておられる。それを用いて、主を愛し、罪から離れる事を。
32:9 あなたはさとりのない馬のようであってはならない。また騾馬のようであってはならない。彼らはくつわ、たづなをもっておさえられなければ、あなたに従わないであろう。
32:10 悪しき者は悲しみが多い。しかし主に信頼する者はいつくしみで囲まれる。
32:11 正しき者よ、主によって喜び楽しめ、すべて心の直き者よ、喜びの声を高くあげよ。
神は思いのままに赦す・赦さないをされるわけではない。赦しには、根拠がある。
その根拠とは、神の御子が身代わりとなってくださった事である。
イザヤ53:4 まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ。
53:6 われわれはみな羊のように迷って、おのおの自分の道に向かって行った。主はわれわれすべての者の不義を、彼の上におかれた。
まことに主から罪を認められない人は、幸いである。
主に全てを打ち明け、心に後ろ暗い所の無い幸いな人であり続ける皆さんでありますように!
イエス様のお名前によって祝福します!